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どうして「気づけば僕ばっかり」になるのか:良き役割分担のあり方を考える

相談してくれた人に「逆質問」してみた

こんな「宿題」をいただきました。

人を信頼したり頼ったりすることがなかなか難しいです。表面上はできても、心の奥ではできていないと感じています。もちろんそれがつい表にでてしまうこともあるので表面上でもできていないのかもしれません。どうすればいいのでしょうか?

実は今回、記事を書き始める前に、「宿題」をお寄せくださった方に逆質問をさせてもらいました。

ここでいう「人を信頼したり頼ったり」って、具体的にどうすることですか?
シンプルに他人に何かを任せることなのか、あるいは「この人は自分を裏切らない」という確信をもつことなのか、あるいはもっと別の何かなのか。

人を信じる、にもいろいろあるんですよね。
だから、この質問がどういう「信じる」を想定して投げかけられたものなのか、あらかじめはっきりさせておきたかった。

いただけた回答は以下のようなものです。

僕が想定していたのは、シンプルに他人に何かを任せることですね。
たとえば〔アカペラ〕サークルで言えば、PA表〔音響的な演出に関する指示を伝えるためのドキュメント〕などの書類の作成をメンバーの誰かに任せる、といったケースです。
任せると言ってお願いしたはずなのに、ちゃんとフォーマットに従ってるのか、バンドで表現したいことが書かれてるか、といったところを、自分の目で確認しないと心配になってしまうんです。

なるほど、これは逆質問しておいてよかった……と心から思いました。
最初に「宿題」を拝見した当初、僕はもう少し抽象的なレベルでの「信頼」、他人に心を預けられるという意味での「信頼」について問われているのだろう、と読み取っていたからです。
確認せずに書き出していたら結構大変なことになってたかも、危ない危ない。

この回答をふまえて、僕はさらに質問をさせてもらいました。

話をざっと伺うかぎり、「別にそれ〔タスクを丸投げせず、ダブルチェックをする習慣があること〕、チームワークにおいてすごく大事な能力だし、あってよくない?」と思ってしまうのだけど、そうでもないんでしょうか?
肝心なところを任せきりにしないというのも、マネジメントにおいては大切な気がしますが、納得できないところがあるんでしょうか。

率直に思ったことをお尋ねしてみました。
これに対していただけた回答が、以下のようなものです。

こっちとしては、「いちいちチェックしてやらないといけない」というのは、正直ちょっと疲れるんですよね……。
本音をいえば、ある程度しっかり任せたいんです。

それと、毎回チェックされるのって、チェックされる側からすると信用されていないみたいで嫌なんじゃないかって。どうしても考えてしまうんですよね。

ちなみに、ここまでお話してみて思いましたが、僕が念頭に置いていたのは、メンバー同士の関係がフラットな組織のケースだったかもしれません。
上司と部下みたいな、任せる側と任せられる側が明確に分かれている関係だと、少し話が変わってくるような気がします。

なるほど、かなり見通しが立ってきました。
単なるチームにおけるタスクマネジメントの話というよりは、その中での心情的な「綱の引っぱりあい」が問題の中心だと考えるのがよさそうです。
いわゆるポジショントーク(立場の力を借りて発言に有効性をもたせること)が通用しないところで、相手と自分の心理的な負担を平らかにしていくためには何ができるか。
夫婦間の家事分担やPTA役員の割り振りなど、「押しつけあい」が問題になりがちな場面にも当てはめられそうな問いです。

問題が精緻化できてきたところで、回答にいよいよ入っていきたいと思います。
なんか上手く人に頼れなくて疲れてばっかりというあなた、必見ですよ!笑

問いを再定義してみた

精緻化できた問いをあらためてまとめてみると、こんな感じになりそうです。

バンドやサークルなど、比較的メンバーの立場がフラットな組織において、タスクを他人に一任することができなくてしんどい。
分担してお願いする以上、本当は全責任を委ねたいのだけれど、任せきりにした結果なにかミスや手落ちがあると思うと怖くてできない。
かといって、毎回毎回チェックするのも、いちいちチェックされる側の気持ちを考えると億劫。
この板挟みをどうしたらいいのか。

うーん、宿題をお寄せくださった方はきっとすごく優しい人なんだろうなぁという感じがしますね。
こういう人に心労をかけるようなことをしてはいかんぞと、指示をもらってタスクをこなす側の人たちには口すっぱく言いたい(大ブーメラン)。

それにしても、最初の問いからするとかなり問題設定が具体的になりました。
わざわざそこまでせずともと思いつつ、念のため冒頭でご紹介した当初の問いを繰り返してみます。

人を信頼したり頼ったりすることがなかなか難しいです。表面上はできても、心の奥ではできていないと感じています。もちろんそれがつい表にでてしまうこともあるので表面上でもできていないのかもしれません。どうすればいいのでしょうか?

よかったらぜひ見比べてみてください。これら二つの問いかけだけをポンッと目の前に提示されたとして、まさか同じことを問題にしているとはなかなか予想できないのではなかろうか……。
いやはや、問いを精緻化するというのは本当に大事な作業です。

それはさておき、「宿題」の回答です。

「お前はすげえんだ、まずそれを認めやがれ!」

今回の「宿題」をくださった方は、おそらくとても気が利いて、かつとても能力が高い人なのだと思います。

何かに長けているということは、それだけ「偏差値が高い」ということです。
偏差値が高いとはどういうことかといえば、語義の通りにいえば、それはまさに「標準から外れている度合いが高い」ということにほかなりません。

つまり、とても気が利き、かつとても能力が高いというのは、言ってみれば「普通じゃない」のです。
それは良いとか悪いとかの問題ではなく、単なる統計的な分布における位置の問題です。他の人よりやや背が高いとか、その程度の話と次元は同じです。

身長で考えれば容易にわかることですが、ある人には当たり前に手が届く範囲が、別の人にはいくら頑張ってジャンプしたところで一生届かない範囲である、といった話は珍しくもなんともありません。
珍しくもなんともないですし、はっきりと目に見えやすいぶん、誰にでも簡単に納得できるでしょう。
しかし、気遣いや実務能力といった、直接的には目に見えない部分についても、身長と同じように考えられる側面が大いにあると思うのです。
つまり、できる人には当たり前にできるけれど、できない人にはできないことというのは、どうしたって存在するのです。

別に努力しても無駄だとか、出来の悪い奴は一生そのままだとか、そんなことを言いたいのではありません。
努力というのは今日までの自分自身を越えるためにするものであって、他人に勝つためにするものではないからです。
もともと能力が低いから努力してもしょうがないとか、そういうことを言いたいのでは断じてありません。

しかし、それとは別に、生まれ持った身長の高い低いがあるように、学習のベースとなる能力の水準には人によって差があります。
そのことを認めずに差別だ格差だと叫ぶのは、単に現実から目をそらしているにすぎないと僕は思います。

宿題を寄せてくださった方は、実務能力や人への気遣いの細やかさは長けている一方で、それが「他人と比べて長けている」ということを、ちゃんと認めることができていないのかもしれません。
それがなぜかというところまではわかりません。努力を努力と思わないあまり、自分の能力の高さに対して確信がもてないのか、あるいは他人の感情に敏感すぎるあまり、出る杭となることを恐れて自分の強みを「認めまい」としているのか、あるいは全く別の心情があるのか。
わかりませんが、いずれにせよ、「自分が当たり前にできることを、他人が当たり前にできるとは限らない」という見方が抜け落ちているのは確かな気がします。
人と協働していくうえで、これは結構致命的なことだと思います。

「役割分担」の本当の意味

そもそも役割分担のあるべき姿というのは、目の前にあるタスクの山を人数等分して割り振ることなどではないと僕は思うのです。
そういうやり方でしか回らない組織というのも世の中にはあるのかもしれませんが(それこそPTAとかそうなのかもしれません)、十中八九その運営は非効率にならざるを得ないと思います。

よき役割分担というのは、各人が自分の特性を正しく認識して、その特性に見合った領分を引き受け、それを全うしたときに初めて成立するものではないでしょうか。

たしかに、そんなのきれいごとだと言われてしまうかもしれませんし、僕もそううまくいくことばかりではないというのはわかっているつもりです。
しかし、そうだとしても僕はやはり、組織のあり方としては上に書いたよう形がベストだと思いますし、個人の多様性に対しても開かれているという意味でも最も望ましいと思います。
細かい作業が苦手な人には大枠をつくらせればいいし、他人との摩擦を好まない人には組織の内部的な仕事を任せればいい。
仕事の量ではなく質で分担を決めていけば、不向きな仕事をあてがわれたことに起因するミスも減らせるし、誰かに心理的な負担が偏ることも防げます。
「任せるつもりでお願いしたのに任せきれない」というのは、本来任せるべきでない相手に任せてしまっているからこそ生じる懸念なのではないでしょうか。

これに対して「いや、でも誰にだってできる作業のはずだし、できなきゃいけない仕事だから……」と口を開きかけたあなた。どうか少し前に僕が言ったことを思い出してください。
「自分が当たり前にできることを、他人が当たり前にできるとは限らない」。言っておきますが、これは本当にマジです
身長160cmの人が電車のドアに対して頭をかがめることが基本的にありえないように、細かなフォーマットを守ったり誤字脱字を見つけ出したりすることがむちゃくちゃ苦手な人間というのは腐るほどいます。
人間の多様性というものは僕らが考えるよりもずっと壮大であり、世の中には自分が100年かけても着想すらしないようなやり方で物事を考える人がいくらでもいるということを、僕らは念頭におくべきなのです。

他人に何かを任せ、協働していくというのは、自分とはまったく違う素質や能力をもった相手と付き合っていくことであり、同時に、相手とは違う自分だからこそ生み出せる価値を提供していくことです。
だから、相手に何かを任せようと躍起になるのではなく、まず自分が得意なことをきちんと「得意なのだ」と認めて引き受けるのが先決なのです。
そして、相手の得意なこと、引き受けられることをしっかりと見極めて、まずは無理のない範囲で頑張ってもらう。
「お前にきっと向いていることだから」という言葉とともに何かを任せてもらって嫌な気持ちになる人というのは、基本的にいないと僕は思います。
まだるっこしい理想論だと言われてしまえばそれまでですが、そうやって独自の価値を交換しあうことこそが、本当のチームワークであり、信頼の入り口なのではないかと、僕は思います。

おわりに

久々に少し長々したうえ、若干込み入った話をしてしまったので、最後にこの記事で言いたかったことをもう一度簡単にまとめてみます。

要するに、誰かに仕事を振るのが不安なのは、仕事を振ったその相手が、自分の期待通りの働きをしてくれる確信が持てないからだと思うのです。
そして、どうしてそんなことになってしまうかといえば、それは相手への期待を自分を基準にして形成しているからにほかなりません。
自分なんかができるんだから、相手だってこれくらいできるだろうーー。
二人の間の差を度外視してそんなふうに期待をかけてしまうと、大抵のばあい裏切られることになります。
裏切られればそのぶん、委ねるのも不安になる。負い目を感じている相手に対して、それ以上の負担をかけるのもはばかられる。
しまいには協働は滞り、気がつけば能力のある一人に仕事が集中することになります。これが組織にとって望ましくない状態であることは、繰り返すまでもでしょう。

できる人は、自分ができることを認めていいんです。そしてそのうえで、「できる人間であるからこそできること」をきちんと全うすればいい。
ほかの人にしたってそれは同じことです。彼らにも彼らなりの領分があり、その領分に関わることがらをこそ、彼らにきっちり担ってもらえばいい。
それが本当の協働であり、適材適所という言葉の意味であり、「相手を信頼して任せる」という行為の本質ではないでしょうか。
「信頼」とは「その相手だからこそ任せられる物事を任せること」であるはずだ、という僕の私見を述べて、ひとまずこの記事を締めくくりたいと思います。

以上、大変長くなりましたが、お付き合いありがとうございました。
次回は今日の記事の前半部分で多少ふれた「問題の精緻化」について、僕が常日頃考えていることを少し書いてみたいと思います。よろしければまたお付き合いください!

それでは、今日はこのへんで!

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