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なんでホラーって怖いのか、あらためて真剣に考えてみた。

いわゆる「ホラー」というジャンルは、僕にとってずっと不思議な領域でありつづけてきました。

多くの人に同意いただけると思うんですが、ホラーって「怖いし変な時間に見ると眠れなくなったりするからイヤなんだけど、ついつい気になって視ちゃう」みたいなところありません?
本当に怖いモノ見たさとはよく言ったもんです。
イヤな気持ちになるってわかってて、どうしてああも心惹かれてしまうんでしょう。

ここ最近は、いわゆるホラーに分類されるような作品、映像作品にせよ文芸作品にせよですが、とにかくそういうものにほとんどふれずに暮らしていました。
が、つい先日、Twitterで回ってきたとあるホラー小説を一気読みしてしまい、ちゃあんと心臓を素手でつかまれたようなキュウッとした気持ちになってしまって、まったくホラーってやつは、と悶々しながら眠れない夜を過ごすハメになりました。

なんで怖いってわかってて覗き込んじゃうんでしょう。
そして案の定怖い思いをして「あーあ」となってもなお同じことを繰り返すんでしょう。
そう問うた時点で答えの一つはわかります。
すなわち「後悔はしていないから」でしょう。
怖かった気持ちが後々まで尾を引いて「二度と見ない、絶対!」と決心するところまでは至っていないからこそ、何度も同じことを繰り返せるのです(同じ「過ち」と言わないあたりもポイントですね)。

そうはいっても、過去にチラッと覗いてしまってすんごく怖い思いをしたいくつかの作品を、もう一度引っ張り出してみようと思うことがどれだけあるかといえば、そんなことはめったにないのです。
だって怖いですもの。
わかってたってうへぇっとなるし、その日は寝付きが悪くなる。
それをよくわかっているので、一度しっかり見たことがある映画などであれ、ホラー作品を繰り返し鑑賞するということはほとんどないのです。

しかし、にもかかわらず、「これはすごい」「本当に心やられる」みたいな感想が口々に語られている作品なんかを見かけると、ついつい覗き込んでしまう。
いったいこれってどういうわけなんでしょう。

ホラーっていったい何なんでしょう、どうして目を逸らしたいのにわざわざ踏み入ってしまうんでしょう?
「恐怖という不快な刺激は私たちに、しばしば同時に快感をもたらす」みたいな説明がネット上の記事でなされているのはいくつか見かけましたが、僕の気持ちをずばり代弁してくれているようにはあんまり思えませんでした。
あの「怖さ」ってなんなんだろう、僕たちはどうしてあれに心を惹かれてしまうんだろうーー?

満足な説明を得られなくてモヤモヤした経験があるのは、僕だけじゃないんじゃないでしょうか?

  *

断っておきますが、僕はホラー好きでもなんでもない、ごく普通の一般人です。
ときどき怖いもの見たさを発揮しては、眠れなくなったりちょっとした物音にビビったりしてしまう、そんなごく一般的な市民です。
そういうどこにでもいる一般市民の視点から、ホラーっていったい何なんだろう、と少し真面目に考えてみるのがこの記事です。

しかし、そうであるからこそ、目端に入ったホラー作品をつい手に取っては「怖いのに見ちゃう自分が一番怖い! なんなの!」と頭を抱えるあまのじゃくな方々には、わかっていただけるポイントがきっとたくさんあると思います。
ホラーっていったい何なの? 怖いモノ見たさっていったい何なの?と(僕と同じく)頭を悩ませている皆さんが、少しでも興味深く読んでくださることを願っています。
ちなみにこの記事そのものにホラー要素はありません(少なくとも盛り込んだつもりは皆無です)ので、どうぞ安心してお読みください。
そして、私はこうなんじゃないかと思う、といった感想を抱かれた方がいらっしゃれば、ぜひ遠慮なくコメント等お寄せいただければ幸甚です。

それでは、どうぞ。

あらかじめ確認しておきたいこと

最初の最初から多少の方々をがっかりさせてしまうかもしれないことを抜かして申し訳ないのですが、僕がこの記事で扱いたいのは「恐怖」であって「驚き」ではありません

何を隠そう小心者の僕ですが、そんな僕の中でも「恐怖」と「驚き」の線引きはわりとはっきり決まっていて、どちらがより嫌いかと聞かれれば迷わず後者であると断言できます。

ですからお化け屋敷なんて大嫌いで滅多に入りませんし、ホラーもゲームや映画となると余計に腰がひけます。
バーンと驚かされたときの心臓に悪いあの感じは、快感に転ずるきざしが見えるどころかシンプルに嫌いです。
湧き起こる感情は怖さというよりどちらかと言えば怒りに近い。
「おどかし」で揺さぶりをかけてくるタイプの作品は、ホラーに限らずあまり好きではありません。

そんな僕のような人というのは、案外少なくないらしい。

ということで、ここでは「恐怖」と「驚き」とをはっきり分けて、前者にのみ重点をおいて考えたいと思います。
2つは密接に絡み合っているところもあるでしょうが、別にむやみな「おどかし」がなくても恐怖感だけで十分に成立している作品はちゃんと存在するので、別物とみなすことはできるはずです。

「怖い」ってなんなのか

上記をふまえたうえで「恐怖」について考えてみます。
いったい「怖い」って何なんでしょうか、僕たちは何を怖がっているんでしょうか。
幽霊や怪異、呪いといった超常的なものが怖いのでしょうか。
それとも、死や苦痛といった生命に対して及ぶ危害の類が怖いのでしょうか。

後者(死や苦痛など)に関しては、まぁそうかなと思うところはあります。
ホラーに限った話でなく、人が惨たらしい死に方をするシーンというものには概してぞっとさせられるものです。
死を避けたいという感覚は生きている限りごく自然なものですし、ましてそれが苦痛をともなうとなればなおさらです。
進化の過程の中で培ってきた共感という能力を介して、私たちは他人の死や苦痛の場面を前に、ネガティブな感情を抱かずにいられないのだと考えられます。

しかし、前者についてはどうでしょう。
幽霊や怪異の類を怖いと感じるのは、はたして自然で当たり前なことなのでしょうか?

たしかに幽霊はたいてい死んだ生き物が「化けて出たモノ」ですし、怪異の類もしばしば人間のなれのはてだったりします。
死そのものや死後の世界を連想させるという点で、僕たちを怖がらせやすい要素は持っているのかもしれません。

でも、そうはいっても僕たちは「敵対的でない幽霊」「友好的な怪異」といったものを想像することも可能です。
『ハリー・ポッター』シリーズに出てくる「ほとんど首無しニック」や「嘆きのマートル」は、主人公ハリーの愉快な仲間たちの一員ですし、『ゲゲゲの鬼太郎』の鬼太郎だって、基本的には妖怪と人間の共存共栄を目指して友好的な妖怪です。
『ゴースト:ニューヨークの幻』を観て、多くの人は涙を流しこそすれ、「幽霊が出てくる!!!! 怖い!!!!」と震え上がったりはそうそうしないでしょう。

では、「怖い幽霊」とそうでない幽霊は、いったい何が違うのか。

基本的に僕たちが怖いと感じる幽霊や怪異、呪いの類は、敵対的で対話の通用しない相手です。
向こうはこっちの都合におかまいなく、殺すと決めたら全力で殺しにかかってきます。
それに対してこっちは、やめろとも話せばわかるともそんなことしても誰も喜ばないし悲しみが増えるだけとも言えない(言ったって通用しないから)わけで、たいがいは抗う余地なく、されるがままに不幸な死に方をする羽目になります。

ホラーの中にはしばしば、「怖いけど感動するホラー」「泣けるホラー」なんて称される作品があります。
僕が知っているものだと『仄暗い水の底から』などはこれに分類できる気がしますが、この作品の「感動」「泣ける」といった要素がどこに由来するかといえば、怨霊の恨みつらみが襲われる側の人間からの働きかけによって最終的に解消されるという、人間と怪異とのコミュニケーションの存在があるゆえだと思います。

一方的に襲いかかる対話不能な怨霊の悲しみや怒りが、ある人間からの働きかけによって初めて癒えることで、ようやく怨霊は自分自身を縛りつづけてきたものから解放され、人間側にもたらされた混乱も収束する。
「そうか、あの怨霊がひどいことをしていたのも仕方ないことだったんだな」と納得することによって、僕たちは安堵しますし、怨霊が誕生した背景に同情して切なさや哀しさを覚えたりするわけです。

こうした交流や、現象に関する理由づけさえないとなると、いよいよ怪異は恐怖の対象でしかなくなるわけです。

僕たちはしばしば、敵対的で対話不能なものに恐怖を覚えるーー。
このテーゼがある程度正しいと思えるのは、ホラー作品を鑑賞するとき以外で僕たちが恐怖を覚える場面というのはどんなものだろうかと思い起こしたとき、浮かんでくるいくつかの場面にもこれがあてはまるからです。

たとえば、サスペンス。

僕は小学生のころ『金田一少年の事件簿』が大好きで、学童保育に置いてあったコミックスを片っ端から読み漁っていたのですが、思い返せばあれも怖いシーン満載で、しばしば肝を冷やしながらページを繰っていた記憶があります。

『金田一少年の事件簿』もまた、怪人や亡霊の名を騙った犯人によって、被害者にあたる人たちが片っ端からろくでもない殺され方をする作品です。
最終的には犯人がきちんとわかりますし、怪人や亡霊を装うのもトリックの一つである場合がしばしばなので、ホラー作品のような「理不尽によって増幅される恐怖感」はさほどないですが、それでも事件の真っ最中はやっぱり怖い
わけのわからん怪異めいたものによって、人がバッタバッタとろくでもない死に方をしていくーー怖くないわけがないですよね。
正統派の探偵モノなので、解決編でしっかり真犯人やトリックが明かされ、事件の背景が明らかになることでカタルシスが得られる(そこを含めて僕は好きだった)わけですが、事件の過程だけを切り取って見せたら、もはや立派なホラーサスペンスでしかない作品だと僕は思います。

ほかにも、実際に起こった凶悪犯罪の事件記録なんかにしても、わけのわからない行動原理を持つものによってもたらされる恐怖感という意味では、ホラーと共通する点があるように思います。
ごくたまに、過去に実際あった連続殺人事件についてのまとめ記事などをついつい読んでしまうことがあるのですが、あれも言ってみれば一つの「怖いもの見たさ」、シリアルキラーの常軌を逸した行動とその原理を覗き込んでみたいという心情からくる行動だと、自分では理解しています。
知る人ぞ知るWikipediaの記事「三毛別羆事件」などからも、個人的には似た印象を覚えます。
とある農村で起きた謎の虐殺事件ーー正体不明の何者かが襲いかかるさまはほとんどホラーですし、その正体が巨大なヒグマだと明らかになってからの描写も、さながら霊との対決や悪魔祓いのシーンを思わせる緊張感に満ち満ちています(もっともこれは記事執筆者の筆力そのものによるところ大ですが)。


僕たちは基本的に、コントロールを奪われて死の危険や苦痛にさらされるのが嫌いです。
シリアルキラーや凶暴な動物が怖いのは、往々にして対話の余地がなく、こちらからの働きかけによる状況のコントロールができないうえ、命さえも奪ってくる危険があるからです。

ありふれた犯罪事件には背景や犯人の動機があるものですし、飼いならされていればライオンだろうとクマだろうと僕たちはさほど怖いと感じません。
しかし、タガの外れた危険な存在が相手となれば話は変わります。
生きとし生けるものの一員である僕たちは、自らの命を守るための処世術として「コミュニケーションによって状況をコントロールすること」を発達させてきたがゆえに、これをたやすく裏切る存在に恐怖を感じるのです。

恐ろしいホラー作品というのは言ってみれば、こうした僕たちの処世術を最悪の形で裏切る存在を描いたものにほかなりません。
原因さえあれば対処のしようがあるものの、それすら無い以上なす術もなくやられるがままに殺されるしかないーー。
ただただ怖いタイプの、感動も涙の余地もないホラー作品では、そんな状況がしばしば主人公にすら容赦なく及びます。
ホラーというジャンルは、説明もできなければ対話もきかない存在からもたらされる恐怖を描くものであり、その恐怖の度合いは敵たる存在がコントロール不能であればあるだけますます深まっていくといえるのです。

「上質なホラー」は何をやっているか

さて、ここまで書いてきたことをふまえて、

「対話もできなきゃコントロールもできない相手に理不尽に襲いかかられるさま」を描けば、それはすべからくホラーだ!

と述べた場合、これは正しいでしょうか?

正しくないですよね、たぶん。

そんなことを言い出したら『新世紀エヴァンゲリオン』だって立派なホラーになってしまいます。
「使徒」はカヲル君を除けば対話不能な相手ですし、ほとんど理解不能な理由で人類を全滅させようと襲いかかってきているわけですから、恐怖の対象としての条件は十分に満たしているはずです。
にもかかわらず、『エヴァンゲリオン』をホラーとして見る人はほとんどいないでしょう。
少なくとも僕はそういう人を見たことがありません。

あるいは、

20XX年、人類は突如ナゾの生命体の静かなる侵略に見舞われた。人々はときに四肢をもがれ、ときに内臓をえぐられ、ときに頭を吹き飛ばされて死に追いやられた。生き残った人々もまた恐怖のどん底の中で過ごす日常を余儀なくされたのであった。

なんて書き出しの小説があったとして、はたしてこれを心から「怖い!!!!!!!」と思って読みはじめる人がいるでしょうか?

たしかに、描かれているシチュエーションそのものは激コワかもしれません。
ただ、かといっていわゆるホラーを鑑賞したときに感じるあの独特の恐怖感、「心臓を素手でつかまれたような感じ」と評されるあの感じを、この短い文章から得られるでしょうか?
おそらくそんなことはないだろうと思います。

怖いっちゃ怖いけど、ホラーと称される作品にはあって上の短文にはない何かが確実に存在している。
ホラー作品の何たるかを一度でも味わったことのある人は、おおむね共感してくださるところでしょう。

それでは、ホラーをホラーたらしめているのは何なのか。
少なくとも、「対話不能、コントロール不能な敵対者の存在」だけでは足りないのです。
そこに必要なのはおそらく、「これはもしかしたら現実かもしれない」と鑑賞者に思わせる企みです。
これが巧みであればあるほど、僕たちはホラー作品からより深く大きな恐怖を受け取ることになるのです。

以下、このことについて詳しく考えてみましょう。

理性の曖昧さ

僕たちが生きていくうえで大切な道具の一つに、理性というものがあります。
目の前の状況に対して筋の通った合理的な判断を下し、危機を避け、より大きな利得のために最適と思われる選択をする。
僕たちにそれらを許している機能をひとまとめに「理性」とまとめるならば、僕たちは確実にこの「理性」によって生かされていると述べることができます。

しかし、この理性というのも実に曖昧で、そのメカニズムは科学がこれだけ発達した現代にあってもまだまだわからないことだらけです。
僕たちはうっすらとそのことを自覚していて、「合理的だと思って下した判断も結局外れるかもしれない」「そもそも何もかもを勘定に入れられない以上、合理的ですらないかもしれない」という「かもしれない」のもとで人生を生きています。
だからこそ、ある可能性を「ありえない」と切って捨てるとき、僕たちはしばしば一抹の不安を感じますし、ときどき元気がないときには、それまで一生懸命積み重ねてきた判断の正しさを疑ったりせずにいられなくなるのです。

僕たちは理性を用いてなんとか人生をやりくりしているけれど、理性を完全に当てにしきれているわけではありません。
それは意志の強弱などの問題ではなく、そもそも理性というのがそういうものであるがゆえに起こること、いわば人間の本質に関わる問題だといえます。

怖いホラー作品は、ここに巧みに揺さぶりをかけてくるわけです。
つまり、怖いホラー作品というのは、僕たちが不完全な理性の上に立ってひとまずは「ありえない」と切って捨てた現実理解をいまいちど拾い集め、「いや、もしかしたら切って捨てたそっちが現実かもよ……?」と提示しなおすことで恐怖を演出しているのです。
お化けはいないし呪いなんてものはないーー目の前に現実に照らしてより可能性の大きいほうを選択すればそう判断できるでしょう。
でも、あくまでそれは可能性や確からしさにもとづく判断でしかないですし、僕たちはそのことを心のどこかで自覚しているのです。

まるっきり荒唐無稽であれば、おそらく誰も「怖い」なんて思いません。
だからこそホラーの作り手たちは、恐怖の源泉たる存在を日常の中へと巧みにすべり込ませます。
なるほど、そういうことなら無いとは言い切れない、と少しでも考えてしまったら作り手の思うツボなわけです。
「ありえない」が「ないとはいいきれない」に、「ないとはいいきれない」が「いかにもありそう」に変換されていくにつれて、僕たちはそれがフィクションであっても、あたかも現実として起きうることであるかのように感じ、恐怖することになるのです。

怨念のルーツが語られる理由

よくあるホラー作品の展開として、「怪奇現象のルーツをたどってみたら、数百年前のご先祖さまがたいそうなやらかしをぶっかましていたことが判明、それが原因で生まれた怨念が災いしているらしいということがわかって、諸悪の根源を叩きに現地に赴く」といった筋書きがあります。
末代まで及ぶ呪いが今の世にも途切れず生きている、なんていかにもおどろおどろしい話に思えます。

しかし、これにしたって見ようによってはめちゃくちゃな話じゃないでしょうか。
だって考えてもみてください。
いくら恨みを持って死んだからといって、その当てつけに数百年後の人たちをめちゃくちゃなやり方で片っ端から殺す、なんて不条理にもほどがあると思いませんか?
まともな大人だったらせいぜい「因果応報」「やられたらやり返す、倍返し」くらいのことまでしか考えないでしょう。
ましてや、まったく無関係の後世の人々を巻き込むなんてもってのほか、倫理的感覚を欠いているどころの話ではありません。

そう、ホラー作品に登場する怪異の類は、往々にしてめちゃくちゃなのです。
ビデオを観た人間を7日後を問答無用に取り殺す、なんて曲がりなりにも「元・人間」のやるこっちゃない。
恨みつらみがあるとして、復讐の相手はせいぜい本人とその一族郎党くらいにとどまるのが通常の人間の感覚であって、そこを軽々と踏み越えるというのはまさに理不尽、人ならざるものの所業としか言いようがありません。

しかし、そうなってくると一つのジレンマが持ち上がってくるわけです。
つまり、たしかに「人間の常識を超えた怪異」は怖い存在として認められるかもしれないけれど、それは常識を超えてしまっているがゆえにリアリティを欠いてしまうという、作り手からするとやや困った事態が出来するのです。
人を怖がらせるためには、「いかにもありそう」だと感じてもらわなくてはいけない。
そのためには、怪異は単なる人知を超えた異物、藪から棒に現れた荒唐無稽な存在であってはならないのに、です。

もうおわかりかと思います。
ホラー作品において、怪異や超常現象がしばしば過去にルーツをもつものとして描かれるのはなぜかといえば、そのほうが「それらしくなるから」にほかならないのです。
ご先祖様のやらかしはあくまでご先祖様のやらかしであって、云百年後のわれわれにはぶっちゃけ知ったこっちゃないと考えるのが普通の感覚だけれども、それでも「そのときの恨みつらみが相当重大なもので……」と言われてしまえばなるほどそんなものかと納得してしまうのが人間というものだからです。

不完全な理性しかもたない僕たちに対して「ありえない話」を「なんだかありそうな話」として飲み込ませるのに、「ルーツ」というものは役立つのです。
だからこそ、多くのホラー作品においては「過去に何があったか」という要素が大切にされ、まことしやかに語られるわけです。
血みどろの戦国武将が本来的に怖いわけでも、夜のお墓が本来的に怖いわけでもありません(と、僕は思います)。
それらが怖いのは、一見ありそうもない話を「実はあるかもしれない話」に格上げするファクターとしてしばしば役立てられてきたからであり、またそのように使われるだけの「それっぽさ」を一応は有しているからにすぎないのです(と、僕は思います)。

僕たちはしばしば、「ご先祖様の業」や「過去の惨劇」といったものに対してえもいわれぬ不吉さのようなものを覚え、ホラーの恐怖の源泉もそういったところに存在しているといったように考えがちです。
しかし、僕が思うに、それは因果を逆転させた考え方なのです。
ホラーにおいてルーツとしての過去が語られるのは、それが常識外れた怪異の存在をもっともらしく語る素材として便利だからです。
ホラー的な語りにリアリティを持たせるための具として使われてきたがために、お墓や古戦場そのものも「怖い場所」になってしまったのであって、お墓や古戦場が本来的に怖い場所だからホラーの舞台になってきたわけじゃないのです(と、僕は思います)。

おわりに

なかなかの大作になりました。
いかがだったでしょう? ホラー好きというわけでもない一市民の独断と偏見に基づく推論でしたが、なるほどと思っていただける部分が多少はございましたでしょうか?

思うにホラーというのは、より純度の高い恐怖を析出せしめるための人工的な試みなのだと僕は思います(当たり前か)。
しかし、だからこそ「ありえない」を「もしかしたらあるかもしれない、いかにもありそう」に格上げすることが肝心であって、単に幽霊や妖怪の類を出しておけばホラーになる、というものじゃないのです。
そのステップを丹念に踏むのがホラーだとすれば、あえて踏まないのがファンタジーではないかと僕は思います。
ホラーが怖いのは、そこに計算されたリアリティがあるからにほかならないーーごく当たり前かもしれませんが、ホラー作品のみならず「恐怖」全般と向き合ううえでも、これは重要なポイントなのではないでしょうか?

大ヒットしたYOASOBIの楽曲「夜に駆ける」のモチーフとなった小説『タナトスの誘惑』は、現実をベースとしつつも物語を「ありそうな話」にまで引き上げようとは試みられていない(と僕は感じました)点で、ホラーとファンタジーのあわいーーどちらかといえばファンタジー寄りのーーに位置づくような作品だったと僕は理解しています。
ジャンルとジャンルの境目というものはしばしば曖昧で、個々の作品をの位置づけをめぐってしばしば議論が戦わされたりもしますが、ジャンルの特性を根本から考えなおすことは、こうした議論を生産的にするうえでも役立つ気がします。
なんでこれは怖いんだろう、なんでこれに感動するんだろうーー。
根本にさかのぼって問いなおすことは、個々の作品や鑑賞者としての僕たち自身をより深く理解することにつながっていくのではないでしょうか?

みなさんはどうお考えでしょう、よろしければ是非コメント等お寄せください!

ということで、今回は以上です。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!

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