「失時記」スポーツと共にした時間      大石 力(エディター)

「失時記」スポーツと共にした時間      大石 力(エディター)

最近の記事

#030 ビーチバレーの魅力を知った日

 ビーチバレーボールが初めてオリンピックの正式種目となったアトランタ・オリンピックでは、インドアバレーのほかに、ビーチバレーの取材もあるので大変だった。  インドア大会が、女子、男子、女子と一日置きに行われたので、男子大会の日を利用して(日本男子は、出場権を得ていなかった)ビーチバレー会場に足を運んだ。  アトランタ市の中心街に設けられたインドアバレーの会場とは違い、ビーチバレー会場は随分と離れたところにあり、地下鉄を乗り継いで、最後はバスに乗り換えて、やっとたどりつくのだっ

    • #029 全日本女子を追いかけて(02)アトランタ

       ソウル・オリンピックでは閉会式に潜り込んで、その光と音の饗宴に感動していたので、今度こそは開会式に立ち会いたいと思っていたが、担当ページの入稿作業をほっぽり出していくことはできず、アトランタ空港に着いたのは、開会式真っ盛りの7月19日午後7時過ぎだった。  バレーボールの女子チームの選手たちも、楽しみだったはずの開会式に出られなかった。開会式翌日に予選リーグの第1戦を控えていたため、出席を取りやめていたのだ。  ひと足先に現地入りしていたカメラマン氏が取っておいてくれたホ

      • #028 バレーボール全日本女子を追いかけて(01)キャンベラ

         人は、いつか、どこかで、見い出される。そして、偉大な人になったり、そうでなかったりする。  例えば、アーサー・アッシュが偶然訪れた南アフリカで、カモシカのような脚と不思議なリズム感でコートを走る少年を見つけて、フランステニス協会に紹介したように・・・。  多分、アッシュが南アフリカに行かなかったら、ヤニック・ノアという当時11歳だった少年のその後の人生は、全く違ったものになっていたはずなのだ。  スポーツの現場でアスリートと言われる人たちを見るたびに、この人はいったい誰に

        • #027 2号で休刊となった少年サッカー誌『J-Kits(ジェイ・キッズ)』

           Jリーグ開幕から1年後の1994年、少年サッカー雑誌『J-Kits(ジェイ・キッズ)』の創刊にこぎ着けた。F1からの撤退を決めて、会社をたたんで1年後に、元いた会社(日本文化出版)に戻っての初めての大きな仕事だった。  目指したのは、“未来のJリーガーを応援する少年サッカー誌”。  現在も行われている全日本少年サッカー大会を目指す小学生のサッカー選手たちが、夢を語り、技術を学び、ともにサッカーを向上していく場が、この雑誌になってくれたらとの願いが出発点だった。Jリーガーのた

          #026 耳から得たF1の感動

           TBSがダイジェスト放映していた時代からF1は観ていたのだが、夢中になったのはフジテレビが全戦中継を始めた1988年からだった。特に12月に放映したシーズン総集編を観て、虜になってしまったと言っていいのだと思う。まだ実際に現場では観たことがなかった暑さや熱気、サーキットを取り巻く空気を味わせてくれたのが、そうした映像に被せられる言葉だった。 そこでは、例えば、ドライバーをこんなふうに表現していた。 『ピケは、ロータスで4年間を無為に過ごしてきた。自ら失った情熱を再び取り戻せ

          #025 ”約束された世界”に生きる

           F1の取材で、1週間置きに日本とサーキットとを往復する生活を続けて得たものは何だったか? と考えることがある。  ひとつは、世界のどこに行っても、生きているのは人間であって、それは日本の田舎を旅することと基本的には変わらないのだという意識を得たことだと思う。  例えば、日本でどこか青森辺りのしなびた温泉にでも行ってみたいと思ったとしよう。例えば酸ヶ湯温泉に行って1泊するとしよう。今だったら、インターネットで乗り換え案内あたりを括って済ましてしまうだろうが、当時は時刻表をくく

          #024 叶わなかった夢

           4年間のF1取材の中で、いちばんの思い出は何か? と問われたら、即座に答えることができる。それは、1991年に1冊だけ発売することができたマガジン形式の臨時増刊号の発刊である。 『ドキュメントF1 1991・夏』と題されたその雑誌は、結局その号限りとなってしまったが、自分の中では、それまでのグランプリ毎に発行する速報誌とは別に、月刊誌として定期刊行物という形で総合的にF1というスポーツのおもしろさを伝えていきたいという趣旨から発案したものだった。  思ったほど売れなかっ

          023 スポーツの現場が好きだった訳

           F1を取材していて、いちばん苦労したのは、今のようなデジタルの時代でなかったので、写真フィルムの搬送と、原稿の送稿だった。  例えば決勝レースが午後4時に終わったとすると、そこから各チームのパドックをかけずり回って取材し、プレスルームに戻ってくるのは午後7時(写真フィルムを持って帰る担当は、このとき既に機上の人となっている)。それから原稿書きに入るのだが、すべてが終わり、日本にファックスし終わると、深夜の2時、3時というのが普通だった。ホテルに戻り、シャワーを浴びると、2~

          #022 F1のファクトリーを訪ねて(2)イタリアの巻

           イギリスのファクトリーを訪ねてから1年が経った1991年1月、今度はイタリアのF1ファクトリーを訪ねることになって、大晦日の午後に日本を発った。  正月元旦にミラノ・リナーテ空港に着いて、ミラノ中央駅に出、普通列車でクレモナを経由して湖に面したマントヴァ駅に降り立つと、夕暮れの駅頭には小雪が舞っていた。  迎えてくれた知人が住むスザーラは、そこから30分の距離だった。その知人の家を拠点に10日間で4つのF1チームのファクトリーを訪ねるのが、そのときの旅の目的だった。

          #021 F1サーキットにて(16)オーストラリアGP

           緑があふれるメルボルンや街角からも海が見渡せるシドニーと比べると、アデレードは砂漠の中にぽつんとできたような味気ない町と思っていたが、実際はまったく違って、町の周りを公園に囲まれ、その外はユーカリの森に続く落ち着いた町だった。  それもそのはず、電車に乗って1時間ばかり行ったところに、ドイツからの移民の人達が母国のライン川周辺の地形に似ていることからブドウ栽培を始めたバロッサ・バレーがあり、ここでオーストラリアワインの7割が作られているという土地だった。  アデレード・

          #020 F1サーキットにて(15)日本GP

           スポーツというものにも、人間の一生と同じように少年期、青年期、壮年期を経て老年期があり、そのどこかで人々の注目を浴びる栄光の時代がやってくるのだ。  日本の野球でいえば、王・長島時代こそ、その黄金の時代であったのだろうし、相撲で言えば若貴時代がそれであった。バレーボールで言えば東京オリンピックの“東洋の魔女”からミュンヘン・オリンピックでの男子優勝を果たした大古・横田・森田時代があり、バスケットボールでいえば、92年バルセロナ・オリンピックでのアメリカ・ドリームチーム時代

          #019 F1サーキットにて(14)スペインGP

           スペインGPが開かれるへレスの町を目指すトランスポーターを追いかけて、ポルトガルの首都リスボンを出発したのは月曜日の朝だった。  ファロの町までひたすら南下、そこからは海岸線を走って国境の河をフェリーで渡った。アヤモンテでスペインに入り、そこからは高速に乗りアンダルシアの州都セビーリャへ。途中、ガソリンスタンドで給油していると、同じくへレスに向かうF1チームのトランスポーターがやってきたり、途中で抜いたはずのトランスポーターに追い抜かれたりの旅だった。  セビーリャで、

          #018 F1サーキットにて(13)ポルトガルGP

           リスボンの裏通りを歩くと、ぷーんといいにおいが漂ってきた。東京下町のタイ焼き屋さんとか大判焼き屋さんのような店構えの中に入ると、並んでいたのは白身魚のテンプラだった。  ポルトガル文化は古くから日本に入ってきており、てんぷらもそのひとつだが、ポルトガルの食べ物はとても日本人の舌に合っているようだ。ポルトガルGP取材のために泊まったエストリルからカスカイスに向かう海岸沿いのレストランにも、さまざまな日本人好みの魚介類が並んでいた。その中でも、その場で焼いてくれるイワシの炭火

          #017 F1サーキットにて(12)イタリアGP

           モンツァには、ミラノから通うことにして、ミラノ中央駅のすぐそばの安ホテルに投宿した。ホテルの前の公道上に設けられた駐車場に車を停め、ラジオを外してホテルに持ち込んだ(車上荒らしが、まず持っていくのがラジオと聞いていたので)。  日本から戻ったもう一人の記者とカメラマンを伴って、サーキットの下見を済ますと、車で北上、コモ湖を目指した。  ミラノの北方には、湖水地方と言われるたくさんの湖に囲まれた土地があって、大都会ミラノから通うよりも、同じ時間で、緑と水に恵まれた風光明媚な

          #016 ステルビオ峠を目指して

           ヨーロッパに行ったら、ぜひとも走ってみたいコースがあった。  昔、まだ自動車が生まれてそんなに立たなかった1931年のことだ。ベルギーのリエージュから出発しアルデンヌの森を抜け、スイス・アルプスを越え、イタリアのアペニン山脈を越えてローマまで車で走りきり、そこから再びリエージュまで戻る総計4,700kmで順位を競った「リエージュ-ローマ-リエージュ」と呼ばれた長距離耐久ラリーが始まった。そして、そこにはステルビオ・パス(ステルビオ峠)という難所があり、その曲がりくねった坂

          #015 F1サーキットにて(11)ベルギーGP

           ベルギーGPの舞台スパ・フランコルシャンにはドイツのフランクフルトから向かった。  フランクフルトからデュッセルドルフまで国内線で飛ぶ予定だったが、フランクフルト便の到着が大幅に遅れてしまったので、その便はすでに出てしまっていた。フランクフルトからデュッセルドルフまではルフトハンザ航空が運行する直通専用列車に乗せられた。    翌朝、デュッセルドルフから高速を飛ばし、アーヘンの町を抜けるとベルギー領に入る。そのまま高速を行くと、スパ・フランコルシャンがあるアルデンヌ地方の