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023 スポーツの現場が好きだった訳

 F1を取材していて、いちばん苦労したのは、今のようなデジタルの時代でなかったので、写真フィルムの搬送と、原稿の送稿だった。
 例えば決勝レースが午後4時に終わったとすると、そこから各チームのパドックをかけずり回って取材し、プレスルームに戻ってくるのは午後7時(写真フィルムを持って帰る担当は、このとき既に機上の人となっている)。それから原稿書きに入るのだが、すべてが終わり、日本にファックスし終わると、深夜の2時、3時というのが普通だった。ホテルに戻り、シャワーを浴びると、2~3時間の仮眠を取って、空港に向かい午前の便で日本に向かうことになる。それが、3月から11月にかけて、基本的には2週間置きに繰り返されるのだ。
 インターネットが普及し、いまや世界のどこにいてもインターネット接続環境さえあれば、写真も原稿も瞬時に日本に送ることができる現在では、信じられないようなことをしていたわけである。
 1991年のモントリオール(カナダGP)では、予選が始まる前日の木曜日に海底ケーブルの火災で、サーキットのあるノートルダム島の全域が通信不能となり、電話はもちろんファックス回線も不通ということになったことがある。公衆電話も使えず、予選第1日は、レースが終わると、100人以上の記者が一斉に島を脱出、原稿送稿のためにホテルに戻っていったのだった。
 WWW(ワールド・ワイド・ウェブ)が発表されたのが1992年、日本で個人向けダイアルアップ接続サービスが始まるのは1994年だから、アナログ記者の最後の時代だったのだ。
 そんな毎日の中でも、F1取材が楽しかったのは、単純にF1が好きだったという以上のものが、そこにはあったからだと思う。
 そのいちばんは、あの空間が持っていた空気だと思う。一昔前と比べれば安全になったとはいえ、生死を賭けたレースを包む緊張感。それを取り巻く祝祭のような晴れやかさ。それが入り交じった独特の雰囲気がとても好きだった。
 それになにより、そこに集う人々が好きだった。もちろん、レースが与えてくれる興奮もあったけれど・・・。
 サンマリノGPの2度目の取材で、サーキット近くの小さな村に宿舎を取ったときには、イモラ駅からひとつ目のカステレ・ボロネーゼ駅に降りてバスを待っていると、女学生の一団がホテルのあるその村(ピオロ・テルメといった)まで一緒のバスだったこともあって付き添ってくれ、バス停からホテルまでの地図まで書いて渡してくれた。
 そして、その日の午後、プレスパスを受け取りにサーキットまで行こうとバスを待っていると、中年の夫婦が車を止めて、乗せていってくれることになった。つい先ほどホテルで顔を見たというその二人はシシリアからやってきていたF1ファンで、夜はパーティに招待してくれた。
 サーキットの中でも、テントを設営している人達を写真に撮っていると、暖かな紅茶を飲ませてくれたり・・・。予選の2日間はとても寒かったのだが、歩いているとワインを勧められて、仕事中だからと言っても断り切れなかったこともある。熱狂的なフェラーリ・ファンの中に日本人がひとりで入っていったら危ないという人もいたが、そんなことはまったくなかった。みんな親切で仲間と思ってくれているようだった。
 
 しかし、もっと心弾ませてくれたのは、2週間ごとに行くサーキットが、会場は毎回代わるにもかかわらず、そこにたどり着くと、「また帰ってきた」と思わせる温かな空気を持っていたことだ。
 大会前日の木曜日にサーキットの下見に行くと、そこには顔なじみの記者がおり、カメラマンの顔があり、チームスタッフがおり、ドライバーがいて、「ハロー」「ハロー」と挨拶を交わす。黙って片手をあげるだけでも、“おお、元気だったみたいだな”と暗黙のうちに了解し合う。そこは熾烈な競争が展開される場、ドライバーもメカニックも敵同士、記者もカメラマンもライバルどうしなのだが、そんなことは一瞬忘れて、共に生きている職場に帰ってきたんだなあ、と実感させる雰囲気があった。「また帰ってきたなあ」と、ほっとするのだった。まるで、家族のもとに帰ってきたような安心感を与えてくれる場だった。