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#028 バレーボール全日本女子を追いかけて(01)キャンベラ

 人は、いつか、どこかで、見い出される。そして、偉大な人になったり、そうでなかったりする。
 例えば、アーサー・アッシュが偶然訪れた南アフリカで、カモシカのような脚と不思議なリズム感でコートを走る少年を見つけて、フランステニス協会に紹介したように・・・。
 多分、アッシュが南アフリカに行かなかったら、ヤニック・ノアという当時11歳だった少年のその後の人生は、全く違ったものになっていたはずなのだ。

 スポーツの現場でアスリートと言われる人たちを見るたびに、この人はいったい誰に見出されて、今ここにいるのだろう、といつも考えた。

 少年サッカーの雑誌が突然休刊を告げられて、バレーボールで頑張ってくれと言われ女子ナショナルチームの担当を命ぜられて、前任者からの引き継ぎを兼ねて、皆に紹介するからと招集されたばかりの全日本女子チームの合宿所を訪ねた時も、その初めて見る練習風景の中で思ったのは、そのことだった。
 そこには30名弱の10代から20代の実業団チームから選抜されてきた選手たちが集められていた(1996年当時は、全員が実業団チームからの選抜で、高校生からの参加者はいなかった)。彼女たちを見出したのは誰だったのだろう? ママさんバレーのコートで遊ばせていた母親だったのだろうか? 体育の授業で才能に気づいた先生がいたのだろうか? 対外試合で敗れた時の相手校の監督が、例えば県の協会の強化委員の一人だったということだって、あったかもしれない。
 いずれにしても、誰かに見出されて、君はここにいる。僕は見出されなかったけれど、君は見出されて、今、ここにいる。頑張ったんだろうが、見出してくれた人がいる。そして今の君がいるんだぞ。その後も、インタビューしたり、コメントも求めたりするたびに、この言葉を心の中で咬み殺した。
 だから、集められた30名弱の中から、選抜合宿が進むにつれて、最初は20数名に絞られ、次に16名になり、最後の12名に絞られる過程で、「いらない」と告げられた選手たちが、一人、また一人と荷物をまとめて宿舎を出、チームに帰っていく後ろ姿を見るときは、複雑な気持になった。
 涙を流す選手もいた。
 だがそれだって、トップに立ったからこそ味わえた辛さなんだぞ。そう言ってやりたいと思っていた。

 1996年の4月だった。そうして選ばれた12名の選手たちと共にオーストラリアの首都キャンベラに向かった。まだチームができて1ヶ月も立っていなかった。
 シドニーを経由して降り立った首都キャンベラは、シドニーともメルボルンとも違う、小さな箱庭のように整然と区画され、綺麗に家々が並べられた人工的な町だった。
 8月にアメリカで開催されるアトランタ・オリンピックのアジア予選がこのキャンベラの郊外にあるオーストラリア国立スポーツ研究所(AIS)内にある体育施設で行われることになっていたので、町中に宿をとって、そこからタクシーで通うつもりで出かけたのだが、予約していたホテルはAISからは、随分と離れたところだった。その上、下見してみると敷地内も広大で、これは車がないと移動するのも大変だということがわかった。
 どこかで車を借りたかったのだが、我々はどちらも国際免許証を取ってきていなかった。小さな町だし、タクシーでの移動で十分と思っていたからだ。はたと、困ってしまったが、領事館に駆け込んで相談すると、意外や意外、数分もしないで仮の国際運転免許証を出してくれた。

 こうして取材の準備は揃ったのだが、バレーボールの編集部に入って、まだ6ヶ月にもなっていなかったので、12名の選手の中で、顔と名前が一致するのは、それまでもテレビでよく見ていた大林素子選手くらい。あとは、チーム取材で何度か訪ねて話したこともあるユニチカチームのセッターだった中西千枝子選手と、同じくユニチカから初選出されていた佐伯美香選手くらいだった。恥ずかしい話、試合のスコアの付け方もまだ教わったばかりで、それは頼りないことばかりだった。
 大会レポートを書くのも初めてなのに、ページ数だけはたくさん割り当てられていて、なんとしてもページは埋めなくてはならない。頼れるのは、顔見知りになっていたユニチカチームの二人だけだったので、カメラマンのM氏と選手宿舎になっていたホテルを訪ね、監督にお願いして、中西、佐伯選手へのインタビューを依頼し、二人の目を通して大会をレポートするという形で、試合が終わるごとに話を聞かせてもらい、試合経過をまとめることを了承していただいた。
 今も覚えているのは、ホテルのプール脇のような日陰で、テープレコーダーを回したことと、ホースかシャワーだったかで、近くに水をかけながらのインタビューだったこと。そして、帰り際にチームメイトや家族に出すエアメールの投函を頼まれたことくらいだ。そうそう、カメラマン氏のたっての依頼で、レンタカーを運転して、朝早く公道をランニングする選手たちを追いかけたことも、覚えている。

 ところで、このAISという施設は、日本で言えば、2008年に完成した東京・北区西が丘のナショナルトレーニングセンターと国立スポーツ科学センターを併せたような施設で、各スポーツ競技団体がここで合宿しながら強化レーニングをしたり、データ採りをしたりするところだった。1981年の設立ということだから、日本より27年も先行していたということになる。政府のスポーツ観光庁の管理下で運営されていると言っていた。スポーツ奨学制度があり、また幼少時からのエリート教育プログラムも、ここで計画・運営されているという話だった。
 チームに少しでも早く馴染むようにと、コートに降りて、そのコートの脇で飛んでくるボールを拾いながら練習を見学した。セッターは中西千枝子選手、対角のライトは大林素子選手に固定されていて、センターは吉原知子選手と多治見麻子選手、レフトには佐伯美香選手と山内美加選手、新人の大懸郁久美選手が交代で入っていた。
 
 この大会で、日本は地元オーストラリアに勝ったのだが、次に対戦した韓国に敗れて、ここでのオリンピック出場を決められなかった。
 日本の女子バレーボールは、1964年の東京大会からオリンピックでは、金→銀→銀→金とメダルを獲得していたので、ここでオリンピック出場権を取るのは当然と思っていたので、信じられない結果だった。
 ただ、素人目(バレーボールの試合は、編集部に入るまでの15年間、全く見たことがなかったので)にも、実に甘いというのか、戦い方を知らないのじゃないか、と思わせるような試合ぶりだった。
”レンドルだったら、絶対、こんな試合をしないだろうな”と、思ったことを覚えている。
 第1セット、第2セットを簡単に取って、日本は韓国を完全に追い詰めていた。ところが、そのあと1セットとなったところで、韓国が求めてきたのが、休憩タイムの要請だった。”ルールにはないが、レフェリーが相手チームの同意があればOKだと言っている。2セットを戦った選手たちが汗びっしょりになり着替えたいと言っているので認めてもらいたい”。それが、その時の韓国側からの要請だった。そんなルールにない要請は蹴って、すぐに第3セットに入っていいはずなのに、日本側は簡単にそれを認めて、休憩に入った。
 そして、そこから流れが変わった。
 休憩を終えた日本チームからは、1、2セットまでの勢いが完全に消えてしまい、反対に息を吹き返した韓国は、見違えるように躍動した。日本はリズムを取り戻せないまま、ずるずると失点を重ね、2セットを失うと、ファイナルセットに入っても、相手の勢いを止めることができなかった。
 誰から聞いたのか覚えていないが、あとで知ったのは、クリスチャン(統一教会とも言われていた)で固めていた韓国チームはサブコートに戻ると、全員がコートに跪(ひざまづ)いて、長い時間祈りを捧げて、精神統一していた、という話だった。
  日本は、この後に日本で開催された世界最終予選を突破して、無事アトランタ・オリンピック出場を果たすことになるのだが、何か、後味の悪さを残す大会だった。

 テニスのレンドルの話に戻ると、彼は、プロになったばかりの17歳のとき、初めて日本の大会にやってきたことがあって、編集部のメインカメラマンだったフリーカメラマンのTさんが”自宅での夕食会に来ることになったから、おいでよ”と言うので、同席したことがあって、そのとき、全く普通の、というか、むしろ日本の選手よりももっとシャイな少年の姿と試合での豹変ぶりに驚かされていた。おい、そこまでやるのか、と言ってしまいたかったほどだ。
 ”いいか、歯向かうんじゃないぞ、二度と俺に勝てるなんて思うな”。
 ランキングが100以上も違う、明らかに格下の選手相手でも、完膚なきまでに叩きのめした。情け容赦なく、という言葉は、こういう時に使うんだぞ、と教えてくれているのかもしれない、と思ったりしたくらいだ。そして、それは、15、16歳でプロに転校し、世界のトップに上り詰めていった女子選手のアンドレア・イエガー選手やシュテフィ・グラフ選手たちにも、同ように言えることだった。
 出る杭は、出る前に打つ。彼ら、彼女らは、徹底していた。