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#030 ビーチバレーの魅力を知った日

 ビーチバレーボールが初めてオリンピックの正式種目となったアトランタ・オリンピックでは、インドアバレーのほかに、ビーチバレーの取材もあるので大変だった。
 インドア大会が、女子、男子、女子と一日置きに行われたので、男子大会の日を利用して(日本男子は、出場権を得ていなかった)ビーチバレー会場に足を運んだ。
 アトランタ市の中心街に設けられたインドアバレーの会場とは違い、ビーチバレー会場は随分と離れたところにあり、地下鉄を乗り継いで、最後はバスに乗り換えて、やっとたどりつくのだった。1度など、タクシーで乗り付けようとしたら、地元のタクシーなのに、道に迷って、随分と時間を浪費してしまったことがあった。
 
 日本から出場していたのは女子2組、男子1組の計6名。女子は藤田幸子と高橋有紀子ペアと、中野照子と石坂有紀子ペア、男子は高尾和行と瀬戸山正二のペアだった。
 会場に着いて、まずびっくりしたのは、会場の眩しさ、明るさだった。真っ白な砂を敷き詰めたセンターコートは、スカイブルーの幕で囲まれ、照り付ける太陽の下でまぶしく光っていた。ディスクジョッキーのようにマイクを持った男性がそのマイクを握りしめて、叫びながら、会場を走り回って、観衆を沸かせる。見ると、その男性もオフィシャルのユニフォーム姿だ。しばらくすると、もう一人のオフィシャルがコートに出てきて、スタンドを埋めた超満員の観衆に向かって放水を始めた。スタンドの一角では、グリーンとイエローで固めたブラジル応援団らしい集団が、サンバのリズムに乗って踊り続けているので、スタンドが揺れる。そんな開放的な雰囲気の中にいると、自然とこちらまで踊り出したくなってしまう。
 インドアバレーと比較して、もう一つびっくりしたのは、日本チームとしてのチームワークのよさだった。男子ペア、女子ペアにかかわらず、日本人ペアの試合には全員で駆けつけて大きな日の丸の旗を振って応援する。試合が終われば必ず駆けつけて、勝っても負けても励まし合う姿があった。
 試合のない日には、ビーチバレーチームの全員で日の丸の旗を押し立ててインドアの日本チームの応援に駆けつけた。いつも一緒で、仲間意識が強かった。
 そうした姿を見たインドアの佐伯美香選手が、あとになってからだが、「あのときのビーチバレーの選手たちを見ていると、うらやましかった。それも、ビーチバレーに移ろうと思った理由だった」と語っていたが、暗いインドアコートでの試合に比べ、太陽の下で展開されるビーチバレーのすばらしさを知った大会となった。
 もちろん、ビーチバレーは鵠沼海岸(神奈川県藤沢市)で毎夏に開かれるビーチバレー・ジャパンの取材を通じて触れていたのだが、あのねずみ色の砂浜しか知らない者からすると、真っ白な砂の反射は別世界のようだった。
 もう一つ、びっくりさせられたことがある。それは、ビーチで鍛えられた選手の筋力と、それに支えられたプレーのすばらしさだった。特に、この大会の男子部門で優勝したカーチ・キライ(インドアバレーで1984年ロサンゼルス、1988年ソウルと2大会連続で金メダル)の見事なフットワークには感心するほかはなかった。日本選手は代表選手といえども、砂の上でプレーしているということがわかるのだが、彼のプレーからは砂地の上で跳んでいるという感じがしないのだ。砂浜での遊びの延長のように考えていたビーチバレーが、鍛えられたアスリートたちによる立派なスポーツであることを納得させられた大会となった。
 日本チームの戦績は、男子の高尾・瀬戸山ペアは17位だったが、女子は健闘した。藤田・高橋ペアが5位、中野・石坂ペアは9位となった。
 ビーチの日本人選手の試合がない日には、インドアバレーの会場に行って、帰らされてしまった強化委員から頼まれていた主力チームのスコアを付けながら試合を見続けた。男子はオランダがイタリアを破って初優勝を飾り、女子は準決勝でブラジルと死闘を演じたキューバが中国を下して優勝した。
 閉会式には、観客全員に富士フィルムのバカちょんカメラが配られ、そのフラッシュを使った演出の中で進行した。
 全日本男子がいない初のオリンピック、全日本女子が初めて予選敗退したオリンピックだった。が、閉会式をビール片手にスタンドから見下ろしているとそこには勝者も敗者もなく、オリンピックという場でどんな形であれ自らの力を出し切ったという充実感にあふれる選手達の、参加できたことへの喜びが伝わってきた。そこで展開されたシーンは、1週間前に帰らされてしまった全日本女子の選手たちにこそ、味わってもらいたいシーンだった。思い出のためなのではない。次の4年後への決意のために、選手たちにはここに止まって、この風景を瞼の裏に焼き付けて欲しかった。そうしていなければいけなかったのだ。そう、思わずにはいられなかった。