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 ヨーロッパに行ったら、ぜひとも走ってみたいコースがあった。

 昔、まだ自動車が生まれてそんなに立たなかった1931年のことだ。ベルギーのリエージュから出発しアルデンヌの森を抜け、スイス・アルプスを越え、イタリアのアペニン山脈を越えてローマまで車で走りきり、そこから再びリエージュまで戻る総計4,700kmで順位を競った「リエージュ-ローマ-リエージュ」と呼ばれた長距離耐久ラリーが始まった。そして、そこにはステルビオ・パス(ステルビオ峠)という難所があり、その曲がりくねった坂を下るレース風景をモノクロ写真で見たときの驚きが忘れられなかった。

 1950年代後半まで続いたそのレースでは、給油時以外は車を止めることが許されなかった。だから、二人のドライバーは100時間以上を一切休憩なしでシート上で過ごさねばならなかった。そのうえ、平均時速50km以上という条件付きだ。海抜2,000m以上の山岳道路であるにもかかわらずだ。

 あのステルビオ峠を登ってみたい。

 ベルギーGPが終わった翌日、そう思って、アルデンヌの森の中にあるマルメディを出発した。

 今思えば、同じルートをたどる手もあったのだが、そのときはライン河に沿いに走りたいという欲張りな気持があり、その気持に負けてしまった。ケルンに出てケルン大聖堂の前のホテルで一泊した後、ライン河に沿って南下した。マンハイムまではライン河に沿ってゆっくりと走った。夕方になってしまったので、ドイツGPのときに来たホッケンハイムに向かい、スパイヤーとホッケンハイムの町を結ぶ鉄橋から見ていて気に入っていたホテルを訪ねる。空きがあるというので1泊し、翌日、アウトバーンに乗って、ライン河沿いのE35を一気に飛ばした。

 バーゼルでスイスに入り、そこからは首都ベルンを経由、インターラケンを目指した。

 目的地はアイガー北壁の見えるクライネ・シャイデッック。氷河の氷が溶け出して増水した川に沿ってラウターブルンネンまで行き、駅の駐車場に車を預けてから、トロッコ列車のような登山電車に乗ってヴェンゲンの村まで登った。

 ヴェンゲンは、交通手段は電気自動車と馬車だけの静かな村だった。村の道に立って空を見上げると、そこには空ではなくユングフラウに連なる真っ白な氷壁が立ちはだかっている。見上げていると首が痛くなってくる。それくらい氷壁は空に向かって突き出ている。時々「パーン」という鉄砲を撃つような音が響くので、あれは何? と聞くと、それが氷河が割れる音だった。それ以外は、近くのテニスコートから聞こえてくる、ぽーん、ぽーんというテニスボールの音しか聞こえてこなかった。

 このヴェンゲンから登山電車に乗って2つ上がると、クライネ・シャイデック。ホテルのテラスでコーヒーを飲みながらたくさんの旅行者がアイガー北壁を見上げている。

 ここから海抜3,454mのユングフラウヨッホ山頂駅までアイガー北壁の中をくり抜いたトンネルを縫って電車は上がっていく。山頂駅は残念ながら霧で何も見えなかった。 凍えるような寒さ。早々に引き上げて駅に戻り、帰りはアルビグレンで途中下車。放牧地の中を歩いて、カラカラと響くカウベルの音を聞きながら、ヴェンゲンまで下った。

 翌日は、谷の反対側のミューレンの村にケーブルカーで上り、そこからシルトホルンまでロープウェイを伝って往復したあと、次の目的地ツェルマットを目指す。


 ツェルマットもヴェンゲンと同様車では入れなかった。電車で1つ前の駅テーシュの駐車場に車を置いて電車に乗り換えての入村だ。駅前はさすがに観光客で溢れていたが、そこからアプト式の登山電車に乗って標高3,090mのゴルナーグラートの山頂駅まで登る。山頂のゴルナーグラートホテルで尋ねると部屋が空いているというので、泊まることにした。翌早朝、展望台に登ると、眼下に長大なゴルナー氷河が流れ、その向こうに白銀のモンテ・ローザが聳え、南に視線を移すと、はるかかなたに朝焼けのマッターホルンが輝いていた。

 翌日は、国道19号線に出て、氷河特急の線路に沿って東に向かい、サンモリッツを目指すことにする。しばらく走るとブリグの町。ここで右折してシンプロン峠を越えるかシンプロン・トンネルを抜ければ、そこはイタリア側だ。ミラノまで1日あれば着いてしまう。そこを、これから3日間かけて行くというわけだ。

 フーシェまで走って一休み。アレッチ氷河をのぞきにロープウェイで登ったあと、急勾配のヘアピンカーブが続くフルカ峠を越えてアンデルマットに向かった。

 アンデルマットは石畳の美しい町だった。時間があれば泊まりたい町だったが、急がねばならない。再びヘアピンカーブが続く道を登り、アーバーアルプ峠を越えて、氷河が残る山々の間を地図を頼りに進んだ。トゥリンまでは正確に地図をたどって進んだが、どうもその辺りで迷ったらしく、「サンモリッツ」の表示をたどっている間に氷河特急の線路から大きく外れてしまっていた。

 しばらく走って分かったことはサンモリッツに向かう新道の3号線を走っているということだった。氷河特急が行くレーテェッシュ鉄道線は旧道というのか、3号線から外れサンモリッツには随分遠回りする道だったのだ。30分以上かけて分岐点の町(ティーフェンカステル)まで戻る。そして、片道一車線の道を進むと、薄明かりの中に中世から続いているような古い街並みが現れた。どこかで泊まったほうがいいとは思ったが、この日のうちに予定のサンモリッツまで行っておかないと、あとのスケジュールが苦しくなる。曲がりくねった夜の道を上って峠を越え、ラ・ポントの町に出て、サメダンを通過、ポントレジーナの町に入ってホテルを見つけた時は既に10時を回っていた。

 ポントレジーナで1泊し、翌日、サンモリッツまで往復した後、イタリア側のティラナの町まで下ることにした。 

 そこからはベルニナ特急が走るベルニナ山系沿いの道となる。走っていると思わず車を停めてしまうほどの風景が次々と現れて来て、突然春が来たような、まるで天国を走っているような不思議な気持にさせられた。

 ベルニナ特急が走る線路は、途中から道路の随分下になってしまうので、電車からの眺めがどんなふうかは知らないのだが、道路からの眺めは、クライネ・シャイデックからのアイガーの眺めよりもゴルナーグラートからのマッターホルンの眺めよりも、記憶に深く残っている。

 何回も何回も車を停めた。

 パリュラ峠を越え、ベルニナ峠を越えると、イタリアのロンバルディア平原を潤すヒューメ・ポー(ポー川)の源流・ビアンコ湖が現れた。パリュ氷河の大パノラマが展開する。結局、この日はティラナには行き着かず、途中のポスキアーボの湖畔のホテルで1泊するはめになる。

 イタリア側に入ったのは月曜日。モデナに入る火曜日まで、あと1日となってしまっていた。

 車を運転してイタリアに入ると、すぐにイタリアに入ったことを実感させられる。向かってくる反対車線の車が、ものすごいスピードで追い越しをかけ、こちらの追い越し車線にはみ出してくるからだ。思わず、「オーイ、勘弁してくれ」と叫びたい気分である。

 その道をスイス国境沿いに北上するとボルミオの町があり、そこからがいよいよ目的のステルビオ峠を目指しての登りとなる。

 日光のいろは坂を狭くしたような曲がりくねった道がどこまでも続く。時折、すれ違う車とはぎりぎりにすれ違う。

 登り切るとスイスの検問所があるが、そちらには行かず、平坦な山頂部分をしばらく走ると、今度は同じようなヘアピンカーブの連続する下り坂が待っていた。

 山頂のレストランでしばらく車を休めてから発進したのだが、あまりの急カーブの連続に、カーブの反対側に乗り上げて、何度も休憩する羽目に陥った。たぶん多くの車がそうするのだろう。箱根ターンパイクの下りに設けられているような待避所がカーブ毎に設けられていた。

 下りきった時はさすがに疲れたが、今度はイタリア側から登ってみたいと思わせる絶景の連続だった。

 下りきるとそこはドイツ語圏で、道路標識もイタリア語とドイツ語が併記されている。メラノで高速に乗り、ボルツァーノ、ベローナを経由してミラノに到着すると火曜日の午後だった。

 8日間を要したスイス、イタリアの山岳道路の旅。今も心残りが一つだけある。道に迷って、夜になり、ラントヴァッサー渓谷の有名なループ橋・ラントヴァッサー橋を見過ごしてしまった。