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 4年間のF1取材の中で、いちばんの思い出は何か? と問われたら、即座に答えることができる。それは、1991年に1冊だけ発売することができたマガジン形式の臨時増刊号の発刊である。

『ドキュメントF1 1991・夏』と題されたその雑誌は、結局その号限りとなってしまったが、自分の中では、それまでのグランプリ毎に発行する速報誌とは別に、月刊誌として定期刊行物という形で総合的にF1というスポーツのおもしろさを伝えていきたいという趣旨から発案したものだった。

 思ったほど売れなかったとこと、速報誌を進めながらのこの雑誌の編集に、スタッフから陣容的にも無理という声があがって、1号で終わってしまったのだが、今でもいちばん気に入っている1冊を挙げろと言われれば、自信を持ってこの1冊を挙げるだろう。

 この雑誌は、フランスGPとイギリスGPが行われた2週間を取材して制作した。カメラマンも、ライターも、現場で長く取材する外国人に絞り、最高の記事と最高の写真を使いたかった。記事内容の打ち合わせ、それに伴う金銭面の交渉のために、テニス時代からコンビを組んでいたコーベット女史にも通訳として同行をお願いし、フランスとイギリスを回ることになった。

 フランスGPは、それまでのポールリカールからフランス中部のマニクールに会場を変えた最初の年だった。パリ・ドゴール空港からレンタカーをして南へ2時間走ってヌヴェールに到着した。ヌヴェールの郊外に位置するマニクール・サーキットには南駐車場と東駐車場が用意されており、駐車に困ることはまずなかったが、宿舎探しには苦労した。アメリカの旅行代理店がサーキットから半径100km以内のホテルを全て押さえてしまったということだったが、なにしろF1チームさえが宿泊施設探しに四苦八苦の有様だった。われわれは30km離れたところの民家を借り受けることができたのだが、取材陣の中には、農場を借りたり、キャンピングカーを宿にする人達も出る始末。サーキットへの道も狭く、一方通行なので大回りになる。渋滞が始まるまでに駐車場に入ってしまおうと朝7時前には宿を出なくてはならなかった。

  宿舎として借り受けた農家は二階屋で、1階はキッチンとトイレ、浴室と居間、2階に2つのベッドルームという作りだった。近くにレストランらしきものもないので、スーパーで肉類を買い込んで自炊したが、ちょうどイギリスで狂牛病のニュースが新聞紙面に載り始めた頃だった。ニュースとしては読んでいたのだが、その数年後にあんなに大きく騒がれるようになるとも思わず、あんなに危険な病気という実感もなかったので、あのころは結構毎日のように肉料理を作っていたと記憶する。とにかく肉は安かった。

 原稿の依頼と写真探しは、下見日の木曜日と予選が行われる金曜日、土曜日を利用して行った。しかし、急な話でもあり、記者からはなかなか快諾はもらえなかった。次のイギリスGPのときまでに検討してからというのが大方の返事だった。それに比べるとカメラマンは、すぐにその場で持ち合わせている写真を見せてくれた。次のイギリスGPまでフィルムを預かって、シルバーストーンで再会するまでに借用写真を決めておくということも了解してくれたので、結構な数のフィルムを預かることができた。


 決勝レースが終わると、帰国組と別れてパリに戻った。コンコルド広場の地下駐車場に車を停めて、広場に面したビルのひとつに入っていたFIA(国際自動車連盟)の本部事務所を訪ねた。広報責任者に挨拶し、毎号届けている雑誌に対する感想を伺うためだった。前年に続く2度目の訪問に、サーキットでは気むずかしい広報担当者が、丁寧に本部内を案内してくださった。暑い1日だったので、コンコルド広場に面したオランジェリー美術館の地下(あとで知ったのだが、入口を入って少し登ったところが2階で、モネの部屋になっているところは1階らしいのだが)に入り、モネの睡蓮の間で涼んでから空港に向かった。

 この年のイギリスGPは、シルバーストーン・サーキットに近いということと、写真を借りることになっていたカメラマンの写真スタジオが近いという理由からノーザンプトンに決めていた。内陸性気候のブルゴーニュのうだるような暑さにうんざりしていた身には、ノーザンプトンの冷気はありがたかった。朝夕はぐっと冷え込み、セーターを着込んだほどだ。

 予選までに、ちょうどサーキットを取り囲むようなかたちで立地していた3つのカメラマンの写真スタジオを訪ねて、これまでに取り貯めた写真の中から使用させていただく写真を選ぶ作業を続けた。原稿のほうも、木曜日の午後、オープンになったプレスルームにやってきた記者をつかまえて企画の趣旨に添った原稿の依頼が完了した。

 決勝レースでは、地元のマンセルがスタート後の一瞬を除き、終始トップを快走して優勝。表彰台の周りは、制止を振り切ってなだれ込んだファンのユニオンジャックで埋め尽くされた。

 しかし、このとき、実は優勝したマンセルは、最終ラップまでマンセルを追走し、最後の周回でエンジントラブルに見舞われマシンを降りたセナを自身のマシンに乗せて周回していたのだ。大歓声の中をライバル・セナを乗せて凱旋するマンセル。その瞬間をカメラに納めたのは・・・、たぶんだが、わたし一人だった。イギリスGP号の表紙も飾ったこの感動的なシーンは、他の媒体(イギリス誌)でもその後見ていないので、ほかの誰も撮れなかったのだと思う。

 なぜ、そんなことができたのか? というと、それは、レースを撮るカメラマンを別に置いて、プレスルームでレースの進行を捉える記者も別に置いて、このシーズンは基本的に観客席からレースを見ながら、ファンの目線で写真も撮り、レポートしようと考えて動いていたからだ。なかなか実際には行けないファンの一人として、観客席から見たレースと臨場感を伝えたかった。

 このマンセルとセナの写真をレースカメラマンに撮れというのは、無理な話だった。表彰式は絶対に外せないので、普通、カメラマンはレースの終盤には表彰台の下に戻って場所取りをしなければならなかったからだ。

 そういった意味で、レースカメラマンが撮り逃がし、わたしだけが撮影したシーンとして、忘れられないシーンがもう3つある。1990年のメキシコGP12週目で、日本人ドライバーの中嶋悟と鈴木亜久里のマシンが接触し、2台のマシンが重なるようにしてストップした場面と、同じメキシコGPで右タイヤをバーストさせたセナがタイヤかすを飛び散らせながら尚も走る姿だ。そして、もうひとつは同年のハンガリーGPの12週目でのマンセルとベルガーの接触の瞬間だ。「なぜ、いつもそういうところにいるのか?」と何人かのカメラマンに言われたが、それはレースをひと所で1ファンとして見つめ続けていたからだと思う。確かにそこからではレースの全体像はつかめなかったが、レース後、プレスルームに戻り、各チームから配られるプレスリリースを読み、ドライバーや監督のコメントを聞けば、レースの流れを確認し、原稿にすることに支障は無かった。


 その後、いろいろなF1雑誌やモータスポーツ誌が出たが、どれもが専門家の目というか内部関係者としての公的な目を通して見たレポートばかりで、お金を払い、年に1回の楽しみとしてサーキットにやってくる、いちばんF1を愛しているファンの視点が欠けていると思えてならない。その目がないから、感動が伝わってこないのだ、と今も思っている。