#019 F1サーキットにて(14)スペインGP
スペインGPが開かれるへレスの町を目指すトランスポーターを追いかけて、ポルトガルの首都リスボンを出発したのは月曜日の朝だった。
ファロの町までひたすら南下、そこからは海岸線を走って国境の河をフェリーで渡った。アヤモンテでスペインに入り、そこからは高速に乗りアンダルシアの州都セビーリャへ。途中、ガソリンスタンドで給油していると、同じくへレスに向かうF1チームのトランスポーターがやってきたり、途中で抜いたはずのトランスポーターに追い抜かれたりの旅だった。
セビーリャで、一旦高速を下りて、空港まで行ってみたのは、スペインGPが終わったらここから帰国するので、市内からの道順と所要時間を確かめておきたかったのだ。返却がスムースにいくようにと、レンタカー・オフィスも確認しておいた。
現在のスペインGPはバルセロナが舞台だが、当時はアンダルシアのへレス(正式にはへレス・デ・ラ・フロンテーラ)の町で行われていた。セビーリャから高速を飛ばすと約1時間でへレスの町だ。今もオートバイのモトGPレースなどが行われるへレス・サーキットは、町の中心部から東に10km行ったオリーブしか育たない痩せこけた台地にある。へレスはへレス酒、つまりシェリー酒の産地で、大会は日本でもよく知られたブランド「ティオ・ペペ」がスポンサーとなっていた。
サーキットに着くと、すでに何台かのトランスポーターが到着しており、1軒だけある近くの居酒屋兼レストランの駐車場にもそれらしい車が並んでいた。メカニックたちがたむろする脇で、ガスパチョを食べて一息ついてから、アルコス・デ・ラ・フロンテーラという長い名前の町を目指した。
スペインのアンダルシア地方を車で走っていると、オリーブしか育たない赤土の大地に、突然、白い街並みが浮かび上がってくる。まるで海に浮かぶ船のようだ。
スペインGPの舞台へレスの周辺にも、そうした白い町や村がいっぱいあった。
アルコス・デ・ラ・フロンテーラの町も、そんな町のひとつだった。へレスから30分あまり東に走ると、太陽を反射させて白く輝く集落が、恐竜の背のように姿を現す。その背中部分の最頂上部に、古城を改装したパラドールという国営ホテルがあり、この町ではいちばん有名なホテルだった。ここに1泊でもいいから泊まりたいと思っていたのだ。グランプリの時期にそれも予約なしでは無理だろうとは思っていたが、とりあえずレセプションまで行って尋ねてみると、3日間だけなら空いているという。あとの4日間は別のところを探すことにして、とりあえずチェックインすることにした。
本当に最後に残っていた一部屋だったのだろう。その後の4日間分の宿を探しに歩いたのだが、どこも満杯だった。グランプリだけでなくこの地の伝統のお祭りが重なっているという話で、この町中では探すのは無理と言われてしまった。
しかたがないので、幹線道路に出て少しばかりへ町から遠ざかると街道沿いに小さなホテルがあった。オスタルという家族経営の安宿だが、今度は英語が通じない。空いてはいそうなのだが、こちらの意図が伝わらないのだ。あとから来る2人と併せて3人の宿が確保できたのか確信が持てないので、スペイン語辞書を引っ張り出して、あれこれやっていると、どこからか宿の主人が若い青年を連れてきた。近くで英語の学習塾をやっている青年を連れてきてくれたのだ。彼が間に立ってくれたことで、やっとこちらが3日後から4日間泊まりたいこと、ツインの部屋にエクストラベッドを1つ入れて3人で1部屋を使用したいこと、だから3人分の料金でなく、2人プラス・アルファで幾らになるか? ということを分かってもらうことができたのだった。
言葉は通じなくても、この地方の人達は牧歌的で親しみやすい人たちだった。車で走っているとヒッチハイクのように手を挙げるので、3人乗せてあげたのだが、その中の一人は、自分の農場に向かうという年配の農夫だった。鍬を持って乗り込んできて、どこに行くのかと言う(こちらは全く理解できないスペイン語での会話なので、こちらがそう理解しただけで、実際にそう言っていたのかはいまだに不明。以下同様)。へレス・サーキットに向かっていると言うと、それでは、この道をこう曲がって、次をこう曲がってと指示してくる。平らな畑に一面白い花が咲いているので、これ何かと聞くと、アーモンドの花だと言って、延々としゃべり続けた。F1は見たことがあるかと聞くと、一度も見たことがないという答えだった。そうこうするうちに、結構な距離を走っていることに気づいて不安になってくる。本当にこの道で大丈夫だろうかと聞くと、大丈夫、大丈夫という仕草。そして、とある交差点に差し掛かったとき、突然、両足をばたばたさせたのだ。ここで降りたいという合図だと理解して、車を止めると、この道を右に曲がってまっすぐ行けばサーキットに出ると言って去っていった。
本当にこの道でいいのだろうか、随分左方向にずれてしまったのではないかと不安に思いながらも走っていくと・・・、無事サーキットの正門に出た。
そんなふうにして、もう一人の記者とカメラマンが日本から戻ってくるまでの3日間、遠くロンダの町まで足を伸ばしたり、アルヘシラスの町からフェリーに乗ってセウタ(アフリカのスペイン領)まで往復したりして、時間をつぶした。
グランプリの3日間も、アンダルシアの太陽がジリジリと照り付けた。その燃え立つような暑さに焼かれたサーキットを、一瞬で凍らせるような大事故が起きた。
予選1日目の終了間際。エンツォ・コーナーで突然コントロールを失った黄色いマシンがガードレールにぶつかって大破したのだ。まっぷたつに割れたモノコックから、放り出されたドネリー(ロータス)の体はぴくりとも動かなかった。
「映すな! 映すな!」プレスルームに記者の叫びが響いた。体が凍り付くというのは、こういうときの言葉なのだろう。覚悟していた事故現場だったが、現実に目にすると体が震えた。ピットに戻った他のドライバーもショックは隠せない様子だったが、そんな中、セナだけが一人クラッシュの現場に出て、飛び散った部品やコースに残ったタイタ跡をじっくりと見て回る姿が印象的だった。立ち止まっては、しゃがみ込み、路面に手を触れている。そして、また立ち上がり、しゃがみ込む・・・。
「あそこはバランスを取るのが難しい場所だ。誰にでも起こりうる事故だよ」
セナは言いながら、40分後に再開された予選で、トップタイムをたたき出した。
どんな嫌な現実でも、勇気を持って自分の目で確かめる。それがプロ・ドライバーだったセナの姿勢だった。
(ちなみに、ドネリーは奇跡的に一命を取り留め、後に一般のレースに復帰した)