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 F1の取材で、1週間置きに日本とサーキットとを往復する生活を続けて得たものは何だったか? と考えることがある。
 ひとつは、世界のどこに行っても、生きているのは人間であって、それは日本の田舎を旅することと基本的には変わらないのだという意識を得たことだと思う。
 例えば、日本でどこか青森辺りのしなびた温泉にでも行ってみたいと思ったとしよう。例えば酸ヶ湯温泉に行って1泊するとしよう。今だったら、インターネットで乗り換え案内あたりを括って済ましてしまうだろうが、当時は時刻表をくくり、とりあえず八戸まで新幹線に乗るだろう。そこから青森まで急行で出て、そこからはバスで八甲田を経由して酸ヶ湯を目指すというのがひとつの方法だ。青森駅の案内所に行って、バスの時刻表をもらう。できれば宿を探してもらって予約を入れてからバス停に向かうだろう。いや、まてよ、八戸から三沢まで行けば十和田市まで私鉄・十和田観光電鉄があるのだから、そこから十和田湖を経由するバスで目指す手もあると考えるかもしれない。とまれ、とりあえずは、三沢まで行き、十和田市行きの電車を待つとしようか。あとは十和田市駅で考えればいい。
 例えばハンガリーGPのためにブダペストの町に入ったとしても、それは同じだ。インフォメーションを訪ね、地図をもらい、安宿を探すなら、そこで予約してもらう。そうして、鉄道駅まで出て、オンガロリンクまでの切符を買う。大会前なので、その日は一つ前の駅で降りて歩いてくださいと言われたら、その駅で降り、道順を聞く。でも、何人かのグループが旗を抱えて前を行く。「あの人達も行くようだから、ついていきなさいよ」と教えられれば、ついていってみればいいのである。なんだ、大学時代に初めて中山競馬場に行ってみたのと同じじゃないか、というわけである。
 何か、外国というととんでもない所に来てしまったように思うかもしれないが、そこにいるのは、同じように生き、悩み、楽しんでいる人間だ。地図さえあれば、あとは自分の目で確かめ、耳で聞き、最後は歩けばいい。海だけは渡れないが、歩いて行けないところなど、この世界にはないのだから・・・、最後は歩けばいいのである。
 もうひとつ、肌身に染みて思ったのは、ぼくたちは“約束された世界”に生きているんだなということだった。
 成田から、例えばアムステルダムに向けて飛行機に乗る。そのためにHISあたりで、12万円なりの格安航空券を買ったとしよう。
 ところが、急病人が出たというアナウンスで飛行機はモスクワに緊急着陸してしまった。アムステルダムでの乗り換え時間は1時間ちょっとしかない。
 案の定、ミラノへの便は、すでに出発してしまっている。
 そのとき、チケットに印字されている出発時間と、到着時間を示して、どうしてくれるのか? と怒鳴ったからといって、その時間が戻ってくるわけではない。その時間は、12万円なりを出して買った、とりあえずの“約束”だったに過ぎないのだ。
 それは、ミラノ・リナーテ空港からタクシーに乗って、「スカラ座の前まで。何分ぐらい?」との問いに「30分だよ」と言ったのに、市内に入ったとたんの大渋滞の中で、隣を走っていたトラックの運ちゃんとけんかを始めて降りてしまった運転手に、「ちょっと、やめてよ。時間に遅れる」と叫んでいるときだって、同じことだ。窓ガラスを割られた車で、1時間後にやっと目的地に下ろされたとしても、せいぜいその運転手に「冗談じゃないですよ」というのが関の山だろう。むしろ、こちらに危害が及ばなかっただけでもみっけものだったかもしれないのだ。
 普段、東京で。例えば渋谷から150円の切符で新宿に向かうときだって、同じことだ。その150円なりで、5分後には新宿のホームに立っていると思っている。が、それだって、そう自分が思っているだけだ。その切符は、絶対に5分後には自分が新宿駅に着いていると保証していてくれるわけではない。何事もなければ、たぶんそうですよ、という“約束”に、わたしは150円を支払ったのである。
 プレスルームで、「じゃあまた、来週」と言って、他国のプレスやチームの広報担当者たちと別れの挨拶を交わすときだってそうだ。互いに、きっと来週も戻ってくると信じている。信じているということは疑わないが、そうだからといっても、それは“約束”なのであって、1週間後に絶対に二人が顔を合わせることができるという保証ではない。
 わたしたちは、なんと無数の“約束”の世界の中で、生きているのだろう? いや、よく考えたら、この世界の中にあることは、みんな“約束”ばかりではないか? 

 だから、それ以後、例えば新幹線で上京するときは、約束の時間に間に合う列車の、必ず1つか2つ前を予約するようになった。絶対にその約束どおりになるということは、これこそ“絶対”にないのだから・・・。
 ただ、飛行機はそうもいかない。次の便がそんなにすぐにはないからだ。だから、飛行機には12万なりの“約束”なのだからと、諦めて乗る。約束どおり着くかもしれないし、着かないかもしれない。でも、それが12万での成田からフランクフルトまでわたしがした“約束”なのだ。としたら、12万だよ。安いものではないか。
 ひょっとしたら着かないかもしれないが、ほぼ間違いなく着く12万円。それを、絶対に間違いなく、にしてくれと言ったとしても、それは無理な相談だ。わたしが航空会社だったとしても、絶対にそんな約束はできはしない。たとえ、1000万を積まれてもだ。
 わたしたちは、そういう“約束された世界”に生きている。残念だが、これだけが絶対のこととして存在することなのだ。