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#022 F1のファクトリーを訪ねて(2)イタリアの巻

 イギリスのファクトリーを訪ねてから1年が経った1991年1月、今度はイタリアのF1ファクトリーを訪ねることになって、大晦日の午後に日本を発った。

 正月元旦にミラノ・リナーテ空港に着いて、ミラノ中央駅に出、普通列車でクレモナを経由して湖に面したマントヴァ駅に降り立つと、夕暮れの駅頭には小雪が舞っていた。

 迎えてくれた知人が住むスザーラは、そこから30分の距離だった。その知人の家を拠点に10日間で4つのF1チームのファクトリーを訪ねるのが、そのときの旅の目的だった。

 イタリアでは日本のように正月三が日が休みと言うことはないので、アポイントメントはすぐに取れると言うのが、知人の言だった。が、いざ交渉してみると、そう簡単にはいかなかったようで、結局、決まっているのは、3日にフィオラノでアレジがニューマシンのテスト走行をするのでインタビューに応じるということだけだった。

 3日、フィオラノのテストコースに行くと、現れたのはクリスマスからずっとシャモニーでスキーをしていたということで、真っ黒に日焼けしたアレジだった。フィオリオ監督も7日までがクリスマス休暇ということで、このときになってやっと、ポールリカールに向かう前日の9日にインタビューに応じてくれるということが決まったのだった。

 他の3チームもまだ予定が立たず、それまでの間、やることがない。田舎町でぶらぶらしていてもつまらないので、車で遠出しようということになり、ベネツィア、トリエステと訪ねたあと、ユーゴスラビアのポート・ローゼ(バラの港)というカジノのある町(現在はクロアチア領となっている)まで行ってみることにした。モナコにもエストリルにもカジノはあったのだが入ったことはなかったので、一度は雰囲気を味わってみたかったのだ。しかし、結局、何もわからないまま、ルーレットに参加し、一度も勝てず、部屋に戻っただけだった。


 最初のインタビューは、この年からフェラーリエンジンの供給が決まっていたミナルディチームのオーナー兼監督のジャンカルロ・ミナルディに決まった。

 フェラーリV12エンジンを乗せたニューマシンの発表会があるから、その場でどうかということになり、陶芸大学のあることで知られるファエンツァに向かった。ミナルディの工場もファエンツァなのだが、発表会場はその郊外の温泉郷のホテルだった。

 その後に訪ねたスクーデリア・イタリアもモデナもそうなのだが、ジャンカルロも「F1には4つの巨大チームの下に4つの中位チームがあり、われわれの目標はこの中位チームの中でトップに立って、何とか5番目のチームになることです」

という言葉を口にした。それは、前年に訪ねたケン・ティレルさんの言葉と重なった。

 1985年に1カーでF1に参戦して以来、6年をかけてミナルディの獲得したポイントは、3ポイントだった。典型的なイタリアの弱小チームで、慢性的な資金不足に見舞われていたが、それでもモータースポーツの中で戦い続けるという姿勢がとても好きだった。

 エンツォ・フェラーリのことに話題を振ると、

「生前、わたしに会ったあとで、まるで若い頃の自分自身を見ているようだと言ったそうです。彼がわたしを気に入っていてくれたお陰で、このエンジンが手に入ったのだと思います」

 そう言って、フェラーリV12の納まった、まだ1台が組み立て終わっただけのマシンに手を置いた。

「あなたは、こんな小さなチームが、よくスポンサーを探してやってこられたと言いたいのでしょうが、でも、それは楽しいことなんですよ。撤退という2文字だけは考えたことがありません。これだけは自分に対して誇れることなんです。わたしは自分が好きなことをやっているんです」

 しかし、年額70億リラ(当時)で各グランプリ毎に6基ずつ供給されたそのフェラーリV12は、その場に来ていたフェラーリ監督フィオリオが語ったように、「Mシリーズと呼ばれるもので、フェラーリ本体のマシンに搭載されるエンジンとは、似ているが同じものではない」のだった。

 結局、その年のミナルディは、そのエンジンの使用料によってチーム財政を圧迫され、1年でフェラーリ・エンジンを手放した。

 そして今、F1のサーキットにミナルディの名前はない。

 もしも、レースでフェラーリを抜いてしまったら・・・と水を向けると、

「きっと心臓マヒになってしまいますよ」と笑っていたジャンカルロ・ミナルディはその後、ネルソン・ピケが率いるピケ・スポーツと組んで、ミナルディ・ピケスポーツを設立、F1よりはずっと下位のカテゴリー、ユーロ3000に参戦することになる。


 次に訪ねたのは、もう一つの中堅チーム、スクーデリア・イタリアだった。この年、テクニカル・ディレクターの地位についたパオロ・スタンサーニをブレシアの本社に訪ねた。ブレシアは、ミラノから車で約1時間の武器や武具作りの伝統を持つ重工業の町だ。

 その町で重工業から銀行まで幅広く企業活動を展開するルッキーニ家の潤沢な資金によって支えられていたスクーデリア・イタリアは、この年から技術部門の総責任者としてスタンサーニを招聘して、チーム再生の手腕に期待していた。

 しかし、ランボルギーニ社でランボルギーニ・ミウラ、ランボルギーニ・カウンタック等を開発し、前年にはブガッティを再生させニューブガッティを生み出していたスタンサーニにして、次のように語るしかなかったのが、F1の世界だったのだ。

「われわれのチームの水準は、4強と言われるワークス勢とは明らかに違います。残念ながら、彼らにはかなわないことを、われわれは闘う前から知っています」

 このスクーデリア・イタリアも、翌年、フェラーリ・エンジンを獲得してさらなる飛躍を目指すのだが、頓挫。94年シーズンにミナルディと合併して消滅することになる。

「F1の世界というのは、非常に人間的な世界だと思いませんか。その人間的なつながりの中で働けるのがいちばんうれしいことなのです」

 そう言っていたスタンサーニさんは、今、どこで何をしているのだろうか?