見出し画像

男性 ら し さぁあ、、あばばばば。

 核兵器の開発によってもはや歩兵戦は必要なくなったどころか、皆が想像しうる戦争というパッケージ化された人類のイベントは稀になった。戦争が常態化していた際、男は戦力として、命を引き換えに戦場へ駆り出されていた。その男性に生まれたという代償に対する補填として、多くの文化圏では男性優位の社会的構造が当たり前となったわけだが、平和な状態においては白兵戦など、マンパワーとしての戦力として他者から求められなくなった。
 もう「男らしさ」とか「女らしさ」とか「子供らしさ」とか「大人らしさ」について語ることが許されなくなってる。”らしさ”は差別用語になりつつある。

 男性優位の社会は一瞬にして変わることはできない。それは既得権としての男性優位の寄与というよりも、元来より社会は人間と同じように一定のホメオスタシスを有しているからだと思う。一度強固に張り巡らせたネットワークが新たな経路を確保し、再接続されていく現在、社会性として求められる男性らしさ(いわゆるα群に属する男性。マッチョで、お金を稼ぎ、家計の支柱となる存在。)とジェンダー論に影響された男性らしさ(人をラベリングする過程で他者や自己を、有る特定のジェンダーに分類せず、誰とでも友好的で、異性に好かれるような何か。)の間に取り残されてしまった男性はその軋轢から逃れるべく監獄へ自らを導く行為を突発的に試行する。

 それは衝動的なものなのか、個人的なものなのか、家族、宗教の問題なのかなどという表層上の観点から考えるのも一興だ。だが根底には矢張り、上記で述べたような2つの”大いなる”男性らしさの集団に属せなかった、もしくはまだ属せていない中、「苦しみ」が発露して発狂してしまうという問題を先に解決すべきだ。

 こと日本人に対して言及するならば、三島由紀夫がかつて外国人からインタビューされている際の彼の言葉の日本語訳が役に立ちそうだ。

 (大学受験以来英語の勉強をサボっているので意訳に間違いがあれば申し訳ない)

「日本の文化、日本人の性質には二つの矛盾する特徴があり、一つは優雅さ、もう一つは残忍さである。この二つはときにきわめて緊密に結びつくとこがある。日本人の残忍さは感情から来るものであり、決してナチズムのように機械化されたものではない。残忍さは”女性的”な面からくるもので、優雅さは我々の神経質な面からくるものである。時折我々は、気品や美意識のような審美的側面にあまりにも敏感である。時折それに疲れ果ててしまい、そういったものから解放されるために、衝動的に爆発したくなる。(終略)」
    

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?