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◣エピローグの理由は◥ 〜 La Raison de L'Épilogue ラ レゾン ドゥ レピローグ〜

♢♢テーマイメージ♢♢
目元に頬に唇に、色鮮やかな紅を差す。
髪に耳に首元に、宝飾品を飾り付ける。
シャラシャラと笑うような音を鳴らして。
甘く誘うスパイスのような香りを纏って。

私は笑うわ。艶やかな唇を引き上げて。
怒って、泣いて、悩み塞ぎ込んで。
抱えきれない万感を抱いて生きながら、
でもきっと最後には、
私は笑うの。勝ち誇るように華やかに。

好きなことに夢中になって楽しむことも、
愛しいものを慈しんで喜ぶことも、
大切なものを守るために戦うことも、
傷を癒やすために逃げることもできる。

私は願うままに振る舞えるわ。
私は私が自由だと知っているから。
あなたが私と同じく自由であるように。
あなたも本当は願うままに振る舞えるの。

私は笑うわ。私の選択の結末を覚悟して。
ねぇあなたなら、どうしたいかしら?

さぁ、お望みのままになさいませ。

作品のテーマ

Harmony with freedom and individuality💮

「自由で個性ある調和」をテーマにした作品です。
今作品は別作品「セピアカラーの共演」と対になるように試行錯誤いたしました。

Charmant Chambreのテーマイメージの内容は、その魅力を伝えるため作品について語る “物語” です。
今作品は鮮烈なカラーのビジューが主張しています。合わせて、テーマイメージも対作品より個性を強く押し出した内容になっています。これはまさに私自身のことにも当て嵌まる内容です。

今回はアラカルト的にテーマイメージに関連する事柄を徒然に書いてみたところ長くなりました(他記事の10倍)ので、小見出しを付けることにいたしました。
ちょっと長めなお話になりますので、どうぞ、まずはリラックスして読み始めてください。

「自由」な話

日本語の「自由」は、明治時代以降に外来語を翻訳した頃から存在する言葉だという説があります。他にも、仏教用語が本来の意味を示しているとする場合もあるようです。

「自由」の意味を持つ言葉

  1. 「愛する」の古英語を語源とする英語 “Freedom” (フリーダム)……生まれた最初から持っている自由、心身を囚われない状態。

  2. 「子供」のラテン語を語源とする英語 “Liberty” (リバティ)……勝ち取った自由、圧政・強制労働などから解放されている権利。

  3. 仏教用語「解脱」(げだつ)……煩悩・欲望からの解放、悟りを開くこと。(サンスクリット語 “Vimukti” (ビムクティ)の訳語)

  4. 仏教用語 “Svayam” (スヴァヤン)(サンスクリット語)……自ら・独りでに、の意味。他に惑わされず自らをよりどころとすること。

なお、四字熟語の「自由自在」も仏教用語に由来し、1004年に道原が記した禅宗を代表する歴史書「景徳伝灯録」にて出てくるそうです。

似ているようでも、それぞれに異なる意味を持つ「自由」があります。
今作品について纏めるまではっきりと意識していませんでしたが、私が「自由」の言葉に持つイメージは、“Svayam” が強めなようです。日頃、仏教を強く意識する機会は無いので何だか意外ですが、漢字を「自らに由(よ)る」と理解していたことが理由のように思いました。

自由について考える時、様々な有名人が残した名言・格言を思い出します。

ほとんどの人間は実のところ自由など求めていない。なぜなら自由には責任が伴うからである。みんな責任を負うことを恐れているのだ。
Most people do not really want freedom, because freedom involves responsibility, and most people are frightened of responsibility.

1856年〜1939年 ジークムント・フロイト

自由とは責任を意味する。
だから、たいていの人間は自由を恐れる。
Liberty means responsibilty.
That is why most men dread it.

1856年〜1950年 ジョージ・バーナード・ショー

書き出してから気が付きましたが、この言葉を残したお二人は同年代なのですね。

今作品ではこれらの言葉を思い、テーマイメージの中に「選択の結末を覚悟して。」と書きました。
実はこの「覚悟」という言葉も、元々は仏教用語に由来するそうです。意外なところで私の中で古今東西の考え方が繋がっているように思えて、改めて面白いなと感じました。

黒尽くめの人物の発言を理解する

様々な事柄に対して自分の意見を明確に意識して持てること、また、それを他者が理解できるように言語にまとめられることは、生きる上で必要な技能であり、とても大事なことだと考えています。そして同時に、とても難しいことでもあると感じています。

これらは、意識する・しないはさておき、子供の頃から繰り返し学び実践練習してきているはずの行動です。それでも、これらを息をするように簡単に行える人は少ないのではないでしょうか。
特に、他者に理解できるよう伝える、というのは現代においては難易度が高いと考えています。
理解するには、前提となる多くの知識や慣習また価値観を共有している必要があると考えています。ですが、現代ではそれらを一切無視して、唐突に話し始めることができます。
そう、「SNS」のことです。

SNSで発信することは、言い換えると、人通りの多い場所で拡声器で呼び掛けたり、飲食店で突然見知らぬ隣の席の人に話しかけているようなものです。そして周り中に同じようなことをしている人が大勢いる。
では、ここで1つ想像してみてください。

ここはとても不思議なとある街の1区画です。ここには、国籍も様々なビジネスパーソンが忙しく行き交う駅があり、漫画やアニメを集めた熱気溢れる商業施設があり、観光地として老若男女で賑わうレジャー施設があり、幅広い偏差値の子供達が通う学校があり、安くて品揃えの良い人気のスーパーがあり、昼間から開いている夜のお店もあります。
ここには何でもあるので、あなたもここに来ています。
すると、前方に黒尽くめの様相をした人が現れました。男か女かLGBT自認の方かも分かりません。彼または彼女または彼でも彼女でもない黒尽くめの人は、おもむろに語りだしました。

さて、この時あなたはどうするでしょうか?
私はそっと目を逸らし、避けて通るでしょう。君子危うきに近寄らず、とも言いますから。または通り過ぎてからそっと振り返り、興味深く観察するかもしれません。
黒尽くめの語る内容が正しいのか正しくないのか以前の問題ですね。

SNSに発信する人は、まさにこの黒尽くめの人に他なりません。今noteを書いている私自身もそうです。
そして黒尽くめを剥ぎ取ってみると、初対面の人であったり、会社や学校の人であったり、友人であったり家族であったり、偶然PCのキーボードを踏んでいった猫であったりするのです。

SNSが当たり前のように使われている現代において、このように不審者を見るような考え方を持つのは、もしかすると古い価値観なのかもしれません。
とは言え、SNSを使う時、常に、誰しもがリスクに曝されていることは違いないでしょう。何だかニーチェの格言を思い出しました。

怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いているのだ。
Wer mit Ungeheuern kämpft, mag zusehn, dass er nicht dabei zum Ungeheuer wird. Und wenn du lange in einen Abgrund blickst, blickt der Abgrund auch in dich hinein.

善悪の彼岸 Jenseits von Gut und Böse
1886年 フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ著

話が少々長くなりましたが、このような黒尽くめの人(もしかしたら猫)へ、自身(こちらも黒尽くめの不審者)の考えを伝えて理解してもらう、と想像すると大変難しそうに思います。※絵にすると大変面白そうな光景ではあります。
では、どうすれば良いのでしょうか?

リスクマネジメントにおけるリスク対策の基本は「回避」「軽減」「転嫁」「受容」(予防、低減、移転、保有)の4つと言われます。コミュニケーションに当て嵌めると以下のようになるでしょうか。

  1. 回避……要因そのものを取り除きます。つまり、コミュニケーションをしない。SNSもやらない、ということですね。

  2. 軽減……発生する可能性と影響を小さくするように努めます。コミュニケーションならば懇切丁寧に説明する、ということだと考えています。いわゆる “強い言葉” を使わないことは勿論、特に「前提」即ち常識と道徳が不一致である可能性に配慮しましょう。

  3. 転嫁……リスクを第三者に共有し負わせます。リスクマネジメント分野での代表的な例では保険が挙げられますね。個人レベルのコミュニケーションでは該当する対策はあまりないかもしれません。SNSツールによる自動チェック機能が近いでしょうか。または、出典や原典を明らかにしておくと「あいつが!あいつが言ったんだ!!」と熱い責任転嫁をできるかもしれません。

  4. 受容……甘んじてリスクを受け入れます。コミュニケーションですれ違いが起こったら、路傍の石のごとく放置するかコミュニケーションを更に重ねてすれ違いを解消する、という精神的パワーファイターを志します。

いかがでしょうか?
こうして見ると他は難易度が高かったり手段が少なかったりするので、「軽減」に当たる “丁寧に伝えること” の大切さを感じます。

とあるSNS投稿を見かけることはその唐突さを考えれば、例えが悪いですがまるで事故に遭うようなものです。事故に遭った場合の鉄則は「冷静に・慌てずに」です。
もし不愉快な情報発信を見かけても、落ち着いて対処をしましょう。常識と道徳という前提が異なる可能性に配慮した、懇切丁寧なコミュニケーションを心掛けてください。
相手の黒尽くめを剥がしたら、もしかしたら猫が出てくるかもしれないのですから。

ティータイム

さて、ここまでは盛大な前置きです。
既に4000文字近いのですが前置きです。出典の文章で少し稼いだ感がありますね。400字詰め原稿用紙で言えば10枚換算ですが、イマドキの人に原稿用紙の枚数で文字量の過多は伝わるのでしょうか。
なお本題の「個性」については、書きたいことではありますが、それ程長くはならない見込みです。多分きっと、前置きよりも多少は短めで、あっという間に読み終わるでしょう。(希望的観測) →追記:前置きより長くなりました……。何故。

読み疲れた方はどうぞここで一区切りとしてご休憩ください。このnoteは銀色の粘体仮想生物のように素早く逃げ出したりはしませんので、何時でも読めます。急いで読みきらなくても大丈夫です。
※個性については書きたい話ではありますが、どうしても前置きよりも抽象的で思想強めな内容になってしまうので、せめてもの配慮として最後に持っていきました。

ちなみに、この部分の小見出しを「ティータイム」とするか「コーヒーブレイク」とするか若干悩みました。珈琲よりお茶のほうが種類が多いので、飲める方も多いかと思い “ティー” を選びましたが、いかがでしょうか?
後は何となく、コーヒーブレイクは仕事中の小休止のようなイメージもありましたので、お茶チョイスです。
お茶も珈琲もちょっと……という方は、お水かお湯をどうぞ。水分補給は大切です。

「個性」を得る

ではここで少し振り返りまして、2つ前の小見出しの中で「様々な事柄に対して自分の意見を明確に意識して持てること、また、それを他者が理解できるように言語にまとめられること」が重要だと書きました。
この内「言語にまとめること」が先の小見出しの内容でした。これは今作品のテーマ「自由で個性ある調和」の内 “調和” のために必要な技能の話です。
ここからは「自分の意見を持つ」、つまり、 “個性” についての話を書いていきます。

もしかしたら、ここまでnoteを読んでくれた方の中には「この文章を書いている人間は中々個性的だな」と感じている方も居るかもしれません。(居ないかもしれません……。)私は独創的な物や発想をとても面白いと感じるので、もし個性的だと思われた方が居れば嬉しいです。
ですが、私にとっては「私こそが普通」であるので、私自身のことを特別に個性的だとは思っていません。当たり前のことですが、人によって「普通」も異なるものです。読者の方々もきっと「普通こうでしょ」と話したら「お前ちょっと変だよ(バッサリ)」と言われたことがあるのではないでしょうか。(ないかも……。)

また、私が私自身をさして個性的だと考えていない最も大きな理由は別にあります。

『完全に、確実に、誰とも違う独創的な意見や思考』というものを、私は持ち合わせていないと考えています。
私の感じることや考えることは、必ず、過去の、現在の、そして未来の誰かが同じことを思うはずだと確信しているのです。

1000年も2000年も昔の哲学が今も親しまれています。特許という考え方が必要とされるほど、同時期に異なる地域で似たようなアイデアが生まれてきました。世界中がネットワークにより繋がる現代では、物理的距離が近い人に同意を得られなくても、海の向こう側から賛同を得ることもできるでしょう。

人の感性や思考は本当に千差万別です。世の中には、突飛で奇抜なアイデアもあれば、王道・定番と呼ばれ世代を超えて親しまれる考えもあります。
多種多様だからこそ、もし多くの人が私と違う意見を持っていても、私と同じ意見を持つ人も必ずやいるに違いありません。なお多くの場合は、自分の意見が多数派か少数派かは分からないでしょう。全ての物事にアンケート調査を行うことなど現実的ではないのですから。

簡潔に言えば私は「完全な独創性はない」という考えです。そして「独創性(オリジナリティ)のない個性がある」と考えています。

きっとここで「こいつ矛盾したこと言い始めたぞ」と思われた方もいるのではないでしょうか。(笑)
大丈夫です、矛盾していません。恐らく。
では仮に “独創性のない個性” があり得たとして、それは一体どういったものでしょうか?

個性とはつまるところ「特徴」であり「他者との違い」とも言えると思います。
“違い” は、他の何かしらと比較検討しなければ分からないことです。ですので、必ず何かしらの情報のインプットが必要になります。

インプットする情報は何でも良いのだと思います。小難しい哲学でも政治経済でも歴史でも、芸能関連ワイドショーや時事ニュースでも、新作ゲームとアニメの話題でも、何でもアリです。
芸能人の不祥事から道徳とは何ぞと立ち返ることもあれば、マンガの台詞や歌詞の1フレーズに救われた気持ちになって感動したり、歴史的偉人の格言に触発されてライトノベルの1シーンを書き上げる人もいるでしょう。知識として得たリスクマネジメントの手法を、苦手なコミュニケーションに適用しようと考えてみる人もいるに違いありません。

重要なことは、情報に触れて何を感じるか、何を考えるか、何を行うのかです。

ですが、情報のインプットが多いほうが一概に良いとは言いません。1つの情報を元に深く考える人もいれば、多くの情報を関連付けて着想を得る人もいます。このような情報の扱い方もまた個性の1つのはずです。
ただ、インプットが多いほど「自分の意見の『テンプレート』」を得る機会は多くなり、個性を得るのに効率的である可能性は高いと考えています。

情報は発信される段階で、恣意的に取捨選択され体系化し直されます。
例えば私のこの長ったらしいnoteも、他人へ紹介する時には「自由で個性のある調和について書いた文章」という一言で済んでしまうでしょう。
これはSNS上の発信だけに当て嵌まるのではありません。芸術や政治的発言や、要約すると殆ど中身のない無駄に長い話も同じです。こうした情報も基本的には複雑化されているのではなく、抽出して特化された内容になっていると考えています。それにより分かりやすくなっているかは、また別の話ですが。

こうして発信された情報を “とある思考・思想のテンプレート” と見做して、同調したり反発したりすることで自分の意見を明確にしやすくなります。そして意見を持つことは、個を確立する、つまり個性を得ることに繋がります。
外出時の服装も、何も無い状態で悩むより、服を並べたりコーディネート例の画像を見たり、何かしらのサンプルがある方がずっと決めやすくなるものです。何事も叩き台があると、意見を出しやすくなりますね。
もっとも、情報のインプットを増やすと個性を得るのに効率的な可能性があると書きましたが、一方で、テンプレートがあるために均一化される、つまり独創性が失われるという可能性もあると思います。本当に独創性がある人は、極端に大量の情報を得ているか、逆に殆ど情報を得ていないかのいずれかである可能性が高そうだなと考えています。これは特段の根拠は有りませんので、妄想の範疇の話ですが。

「サロメ」や「幸福な王子」が代表作とされる作家が次の言葉を残したそうです。皮肉屋を皮肉る彼のことですから、もしかしたらこれは否定的な意味の言葉だったのかもしれません。
私は決して否定的な意味で書くのではないのですが、ここまでに書いたことはこの言葉に近しい部分があるのかな、と考えています。

ほとんどの人々は他の人々である。
彼らの思考は誰かの意見、彼らの人生は模倣、そして彼らの情熱は引用である。
Most people are other people.
Their thoughts are someone else’s opinions, their lives a mimicry, their passions a quotation.

1854年〜1900年 オスカー・フィンガル・
オフラハティ・ウィルス・ワイルド

語弊を恐れずに大胆に言えば、全ての情報は誰かの思想や思考を反映したものです。
科学的な情報ですらも、誰かが意思を持って集約・整理した情報です。科学に携わろうとする人の多くが公平さや正確さを心掛けることで、追検証できるようになるのです。そして科学は、追検証できることを是としているという前提があります。科学的な情報を信用するというのは、この前提を同様に是とする思想である、とも言えるでしょう。
本来は人の振る舞いに、神の如き公平さや正確さを期待するべきではないでしょう。そもそも、多神教の神様は大体がしっちゃかめっちゃかな振る舞いをしますし。おっと話が逸れそうですね。

さて、話を少し戻しまして “独創性のない個性” についてまとめていきましょう。

ここまでに記した通り、思想や思考、意見やアイデアは実に様々です。1つ1つの事柄について、完全に独創的で世界中の他者と全く異なる、ということは基本的にないでしょう。
必ず何かしらが他者と似通うのであれば、他者との違いとも言える「個性」はそもそも存在しないのか? いいえ、実感として「個性」はあります。読者の方々も「これは個性的だな」と感じたことがあるのではないでしょうか。
ここで、この矛盾にも思える状況を解決するために1つの考え方を導入します。

個性は1つの観点で判断するのではなく、集合・組み合わせとして判断するのです。

「個性」や「個の人格」は、その人生で触れた沢山の他者の人生(他者が発信した情報)の、好きな部分を切り抜きまとめた集合体に近いのではないかと、今の私は考えています。

ミクロに細かな部分を見れば他者と同じでも、マクロに全体を俯瞰すると全てが一致する他者がいることはありません。
1つ1つの事柄で独創性がなくても、私の全ての要素を兼ね備えた人は、世界でただ1人、私だけでしょう。
このような話をしていると、数学の組み合わせ問題を思い出しますね。私は組み合わせの出てくる統計や確率の分野は苦手なのですが。(笑)

唐突な例え話になりますが「ショッキングピンクを取り入れて自分の服装をコーディネートして」というお題が出たとしましょう。(不思議な状況ですね)
派手な色に躊躇する人もいるでしょうが、何人かはあえて目立つトップスにどピンクを選ぶ人もいるでしょう。この時点で個性的だと思えるかもしれませんが、そこから更に鮮やかなコバルトブルーのボトムを合わせる人もいれば、黒などの締め色を合わせる人もいるでしょうし、反対色に近いグリーンを合わせる人もいるかもしれません。
このように、1つの観点で判断するより、組み合わせて、ひっくるめて考えるほうが個性というものを感じられるはずです。ちなみにどの組み合わせ例も、スカーフや羽織りなどで白を入れるとわりと綺麗にまとまりそうだなと思います。

個性の爆発のようにも思える芸術分野では、模倣について古今東西に渡り様々な言及がなされています。一見、独創性とは反対にあるように思える模倣という行動について、以下の言葉はいずれも、模倣を一律に否定するような内容ではありません。

すべての芸術は自然の模倣にすぎない。
All art is but imitation of nature.

紀元前1年〜65年 ルキウス・アンナエウス・セネカ

優れた芸術家は模倣し偉大な芸術家は盗む。
Good artists copy, great artists steal.

1881年〜1973年 パブロ・ルイス・ピカソ

何も真似したくない人は何も生み出さない。
Those who do not want to imitate anything, produce nothing.

1904年〜1989年 サルバドール・ダリ

すべての創造は模倣から出発する。

1934年〜1997年 池田満寿夫

“創造性のある模倣” が成立するのならば、 “独創性のない個性” も成立してもおかしくないと思えてきませんか?

また「個性」という言葉とは裏腹に、個性について考える時には前提として周辺環境も考慮する必要があります。
先程の例え話でショッキングピンクを着た人が1人なら、どのような着こなしでも個性派に見えるでしょう。ですが周囲の全員がショッキングピンクの服装をしているなら、ショッキングピンクを着る人は協調性豊かで平和的な人物に見えます。
物語のお姫様や王子様だって人数が少ないから特別感があるのであって、100人も一度に登場したら有象無象と十把一絡げにまとめられてしまうでしょう。

さて、この長いnoteもようやく終わりに近づいてきました。ここまでお付き合いいただけた読者の方々に、まずは感謝いたします。ありがとうございます。(9200文字を超えました)
多様性について何かと話題になる昨今、作品のテーマイメージに取り入れたこともあり、個性に関する私見を言葉にまとめてみようとこのnoteを書き始めました。このような個性の考え方も、同じような話をされている方がきっと沢山いると思います。
ただ私の考え方が、自分らしさに悩む人、自分には何か才能があるのかと悩む人のヒントになったら嬉しいとも思っています。

私は、できることは才能があることだと考えています。才能がないことというのは、不得意なことではなく「できないこと」だと考えています。
息をすることができない人は生きていけません。当然のことですから「何をそんな当たり前のこと」と思う人もいるでしょう。ですが、世の中にはそんな当たり前のことをうまく行えずに亡くなる方もいます。これを才能がなかったと表現するのは不適切かと思いますが、ようは「得意なことではなくても、できることは沢山ある」という話です。

そしてできないことがあっても、悲観することはありません。それもまた「個性」の1つというだけです。「自分らしさ」とは、得意なことを並べ立てた結果ではありません。嫌いなことも、不得意なことも、やらかしてしまうところ含めて「自分」でしょう。コミュ障キャラにもドジっ子キャラにも、物語における需要は多いのです。いえ、これは決して私の特性の話ではないのですが。あくまでも一例ですが。
変えたいと思うのなら工夫していけば良いし、変えられないと思うのならそれを前提として次へ進めば良いのです。

話すことも、聞くことも。書くことも、読むことも。
得意とすることではなくても「できる」という才能があるなら、何も問題はありません。速度は違えど、続ける限りいつかは望むところへ辿り着けるでしょう。継続することもまた才能の1つです。逆に、新しい手法に次々とチャレンジできることも才能の1つです。
ここまでこのnoteを読んだ読者の方々には、少なくとも忍耐力があり、人の話に耳を傾ける才能があります。

「自分」とは即ち思想や思考のスクラップブックのようなもの、と言えるかもしれません。

嫌いなものは無理に入れなくて良いのです。一度入れたものを外しても構いません。元の形とは違う形へ変えても大丈夫。
好みのままに組み合わせるのが素敵なものを作るコツです。
ただ1つ『家族でも友人でも、SNSの向こう側の黒尽くめの人達も、誰もが自分のスクラップブックとは違うそれぞれのスクラップブックを大切にしている』ということを忘れないことが重要です。

「個性」とは、その人そのもの。
ありきたりな結論で残念に思われた方が居たら申し訳ございません。素晴らしい思い付きだと感じることも、よくよく思い返してみると平凡で当たり前な内容ということは、意外と多いものです。
それはもしかしたら、平凡なことが素晴らしいことであり、当たり前なことが貴重であるからかもしれませんね。

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文責:ひゆみ

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