普遍的な人間に成る為に、ただ、生きてきた。 溶けた脳に流れるは、“Fly Me to the Moon”。 今や、幼い頃のアタシが夢見ていた新世界は、 真黒な海の底に飲まれてしまって。 船乗り達は、ネオンを目指して、オールを漕ぐ。 「風が無いわね」 船着場の傍、賭博に興じる者達の、賑やかな声のこだます酒場を横目に、独り言。 老いた船頭の、無口な背。 ゆっくりと、油絵じみた景色を映した波を、人差し指の先で搔く。 口内にベタついたカクテルの後味は、唇の渇きも、愚かなアタシの
その唇。 金魚の尾鰭が、揺れる水槽。 汚く泡立った私の心に、濡れた貴方の黒い瞳が、ザラザラと、ザラザラと。 その唇。 鼻に掛かった横髪に、茉莉花の香。 傷だらけの私の首に、骨張った貴方の手が触れ、ジリジリと、ジリジリと。 その唇。 紅く熟れた実のような、甘いそれを貴方は、私に投げてよこした。 ひとたび私が口に含めば、貴方は微笑を湛え、私の愚かさに安堵し、また饒舌に騙る。 私の首縄を強く絞め、貴方は「これは愛だ」と笑った。 終わらせる勇気さえ持たない貴方は。 きっと今夜
「愛されたい」って、田舎の畦道、黒い怪物の背が並ぶ、そこに叫んだ。 私だって、誰かの一部になって良い筈なんだって、そう、認めて。 素直を知らないまま、いつだってその眼前の、 “大切”が去る事は咎めなかった。 行かないで、と言えるほどの自信さえ、私は持ち合わせていないから。 気付いていないよ。 離していいよ。 戻らないでいい、形も、声も。 どっかに行ってしまって、そのまま。 ……私の胎の奥で、静かに死ねば良い。 誰も居ない、という事実だけが、私の安心に変わるから。
若い女の屍体が、床間に一つ。 溶けた蝋のような青白い艶かしさが、 かつて炎を灯していたであろう、 その胸の輪郭に沿って、温く。 投げ出された太腿が、濡れた襦袢の隙間から、 静かにこちらを覗く。 割れた無名異焼の花瓶の破片達は、 赤黝く湿った畳の上、 星屑の如くそれに輝く。 側にある彼岸花だけが、 翳を落とした部屋の中で、 未だ、ぼうっと燃える火の様に。 障子戸の小さく開けられた穴から見えた、 一つの絵画じみた光景に、幼い私は、 暗い美しさと、重い高揚を感じた。 どこか無
酷く醜い女が、洗面台の前に立っていた。 油に汚れたTシャツ。途中で千切れた髪。 撓んだ輪郭。丸く潰れた鼻。虚に重たい瞼。 剥がれた歪な紅いネイル。 どこからどう見ても、私は『可愛い』のその部類では無い。 どんなに擦っても、擦っても、消えない自己嫌悪がそこにびっしりと根を張っていて、私は未だに、かつての他者の評価に囚われ続けている。 ふとした瞬間にそれらを思い出しては、ビルの鏡面に映し出された姿を、横目にも見る事が出来ないくらいである。 毎日道具箱の中から取り出した化粧品達を、
もう、何年着ているのかさえ忘れた下着の紐を、あなたは丁寧に直した。 その優しさに心底苛立ったから、私は「ありがとう」、その日1番の、可愛い顔をした。 あなたは私を殺せないから。 愛しているの声も、行為も、全てが生ぬるい。 私はあなたに殺されないから。 ずっと満たない罅割れた器を抱いて、眠ることしか出来ない。 私が生きていれば、あなたの中で、簡単に忘れてしまえる自分にしかなれない。その事実が、悲しくて堪らない。 私の存在そのものに悩まされて、嫌になって、あなたの全部が壊さ
どうしようも無い闇が、私を覆った。 黒く光った森を連れた“それ”は、私の身体中に纏わりつき、眼を隠す。 温く濁った瞳の奥。枯れた木々が囃し立てる耳の奥。咳切れた血の味に塗れた喉の奥。 遠くの山並に陽が昇り、暗がりが碧く燃えた。 濡れた枯葉の上、擦れた膝を抱いて蹲る私の、冷えた肩は小刻みに揺れる。 何処から走り続けて、此処に来たのか。 何から逃れて、此処に来たのか。 今となっては、分からない。 しかし先程まで、私を喰わんばかりであった葉の先に、美しい大気の子供達が宿り、その身を
アラームを止めようと伸ばしたあなたの腕が、私の顔にかかる。 そのまま抱き締められ、貴方の胸元の、柔らかな香りに包まれた時、私は心底、生きているのだと、穏やかな睡魔に目を閉じた。 あなたが隣にいる間、私の思考が止むことは無い。常に脳の何処かがぐるぐると目まぐるしく動き、あなたの中の私を探す。 あなたが着ている私のスウェット、あなたが私の家で洗った下着、私の匂いの染みついた骨ばった長い指。全てに私の片鱗を探しては、安堵する。 他のどの暖房器具でも満たない自然の温もりに、私だけが包
皆様、暫くぶりですね。 お元気でしたか。「まぁまぁ」なら、上等です。 漸くカレンダーに、脳味噌を使って向き合わなくてはと思い立った11月が終わり、12月ももう約1週間も経ってしまいました。どんどんと日々の流れに取り残されているような気になって、焦るのは何故でしょうか。 何かを成したいと、心の奥底、どこかで思っているのでしょうけれど、寝てしまえばまた振り出しで、いつもの生活を全うするに至ります。それもまた良いじゃないか、と、自分自身を、考え得る最大の愛で、何とか癒すことに精一
今日も、よく生きたと、自分の腕を抱き寄せた。 今日はもう、ゆっくり眠りについて。 明日はまた、忙しなく1日を生きる。 誰かの優しさに気付けないまま、垂れ流れる孤独を掻き寄せたまま。 いつかの「私」をテーマにした発表も、今の私には軽すぎると感じられるようになったくらいには、様々な事象を過ぎてきたのだと思える。 誰かに抱き締められなくとも、誰かによく頑張ったと褒められなくとも、今のあなたも、私も、十分過ぎるくらいに、よくやっている。 疲れたよな。 優しすぎたあなたの心の穴が、どん
全部全部、消えちゃえ!って思った。 髪の毛は右側が上手く巻けなくて、新しく買ったリップは今日のメイクとちぐはぐで、左目の二重がほんの少し、いつもより狭かった。 彼氏のLINEは2時間返って来なくて、友達からの相談は溜まっていく。 でも誰も、あたしの声は聞こうとはしてくれない。 いいんだ〜、だってあたし、大人っぽいから。 誰よりも思考を練り上げて、誰よりも早く、大人にならなきゃって努めてきたんだから。 あたしが吐いた引用だらけの言葉で、誰かが「ありがとう」って言ってくれ
あぁ苦しい。痛くて堪らない。 気分を上げる為に爆音で聴いていた音楽も、今は微量の音すら神経を逆撫でするから、私は無音室のような部屋で1人「これ」を書いている。 社会に準ずる事で得てきたものは、僅かばかりの金と、無駄に達者になった言い訳を言う頭くらいで、あとは、失ったものの方が大きいかもしれない。 学生時代、大人という存在は果てしなく大きいものに思えていた。この世界を牛耳っているのは無論大人達であったし、私達に教えを説くのも、赦しを与えるのも大人だった。 好きな大人、嫌いな大人
「僕、死にたいと本当に思った事、一度も無いんです」 血管も透けるような青白い肌の少年は、私にそう言った。何か言葉を発する度に首を横に動かす癖は、発言するということに対する、この時期の少年が抱く独特の気恥ずかしさを隠す為の、精一杯の行為であった。鼻まである前髪の隙間から見える目は、猫のように吊り上がっていて、それでいて切長で。そこに嵌め込まれた真黒な瞳は、大人の妖艶さと、まだ少年らしい幼気な甘さを纏った不思議な光を放っていた。 太陽の陽射しから逃れた教室の隅に居ても、額に汗が
手首に這っている。それは今も変わらず。 消し去りたくて掻きむしったら、新しい赤が糸を引いただけだった。 愛した日々も、人も、物も、消えては産まれるこの世界で、私は息をする。 全てが正しい、この世界で。 そこに、私は居ない。 私の人生に、続きがあるとするならそこは、どんな場所だろう。和やかな空気と笑い合える場所だろうか。忙しない哀しみに押し潰され、独り涙する場所だろうか。 そのどちらにせよ、抱きしめてくれる両腕が存在するなら、私は私の続きを知りたいと思える。 ただ盲目に、目の前
面白かった。 戦争を題材にした映画を「面白かった」というのは御門違いな気がして未だに気が引けるし、適当であると思えないのだが、これには幾つか理由がある。 まず一つ目、「表情」。 今は亡き三浦春馬さんの、防空壕に避難したシーンだ。戦地から帰り、穏やかなひと時を過ごすと思われたのも束の間、空襲警報が鳴り、一同避難した。その際の、戦闘機の飛ぶ空を見上げている時の表情が、他シーンでの、母親役田中裕子さんの「戦地での話は一個もしなかった」の裏を容易に理解する事が出来た。 海に入って行く
遥か頭上、その雲は流星の如く細く儚い。 口に含んだ檸檬水の、柔くも鋭い光に、私の意識は明瞭になる。 眼前の男が昔吐いた言葉は、この世が如何に平和なものであるかを、私に思い知らせた。 そうか、私は幸福な時代に生を受け、こうして時間を浪費しているのか。 垂れ流れている底無しの愛憎が渦巻いては、私の身体を引き摺ろうとして止まないのに。 血の滲んだ爪を噛む。黒く濡れた髪は振り乱れて、まるで鬼婆の様に。紅く擦れた膝を抱く私を、部屋の隅、陽光から逃げた暗闇が、そっと撫でた。 微笑むと