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「僕、死にたいと本当に思った事、一度も無いんです」

血管も透けるような青白い肌の少年は、私にそう言った。何か言葉を発する度に首を横に動かす癖は、発言するということに対する、この時期の少年が抱く独特の気恥ずかしさを隠す為の、精一杯の行為であった。鼻まである前髪の隙間から見える目は、猫のように吊り上がっていて、それでいて切長で。そこに嵌め込まれた真黒な瞳は、大人の妖艶さと、まだ少年らしい幼気な甘さを纏った不思議な光を放っていた。
太陽の陽射しから逃れた教室の隅に居ても、額に汗が滲む程に暑い夏だったが、彼は毅然として涼やかな表情で、その首筋には一筋の汗も無く、細い腕を黒い制服に隠していた。

「気付くといつも、なぜでしょう、自分は死の淵に居る。ただ、それを恐ろしいとも思わない」

まるで舞台に上がった俳優が言う台詞のように吐き出される言葉達の違和感に、私はただ紙の上に筆を滑らせる。

「僕は、生きたいのでしょうか。死にたいのでしょうか」

君はもう、答えを知っているでしょう。
と、私は言った。
君は生きたいとも、死にたいとも思わない。
それは、命の価値を知らないが故に、生や死だのという極端な論争を好んでやまないからだ。
死を遂行しようとする己の行動で、生を赦す事が出来るから、君は死という未知に理想を抱く。
誰に甘やかされたいわけでも、支えられたいわけでもない。
自分という存在そのものを、ただ世に知らしめたい。その理想が果てしなく現状とかけ離れているが故の、ある種の発表会だ、君にとっての死は。

「先生、僕、ただ僕で居たいだけなんですよ。先生が仰るみたく、そんなに狡賢い卑怯な人間ではありませんよ」

彼はふふふ、と口を抑えて笑った。
その仕草がどうも艶めかしくて、私は何故だか言いようも無い恥ずかしさに襲われて、顔を背けた。
彼は私の顔を、机に頬をつけながら覗き込むと、続けて言った。

「先生。僕、綺麗です、生きてるから。でもね、それと同じくらい、いや、もしかしたらそれ以上に。死は、綺麗なんです、僕にとって。僕は綺麗になりたい。綺麗である事が、僕なんです。純粋な気持ちです。それ以下でも、それ以上でもない、ね、ただそれだけなんです」

チャイムが2人の間を遮った。
私はその時、少なからず、「助かった」そう思った。何から逃れたのかは分からない。ただこの場から、彼の眼の深さから、今すぐにでも逃げ出したかった。先生という、己の肩書きを捨ててまでも。

「だから、先生」

柔らかな、風が吹いた。

先程までの蒸し暑く停滞していた空気は、何故だか遠い記憶のように思えたくらいにすっかり消え去っていて、そこにあるのは、甘い若い風を纏った、夏の光の道筋、その美しさだけだった。
目の前にいた彼も、幼い頃夢に見た美しい少年の幻想だったのかもしれない。
今、私の前にあるのは、倒れた椅子と、開け放された窓。耳を劈く、女子児童の悲鳴。

こうして彼は、彼の求める完璧な美しさを手に入れた。
校庭の土に黒く染みていく彼の血液は、ゆっくりと私の意識を抱きしめて、そのまま深い沼に引き摺り込んでいくようだった。
これも全て、暑さのせいだと思った。
翳りゆく視界。
眩暈のしたその先で、最後に見たのは、絵に描いたような入道雲の浮かぶ、群青色の空に投げ出された、私の脚だった。

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