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花を結う

遥か頭上、その雲は流星の如く細く儚い。
口に含んだ檸檬水の、柔くも鋭い光に、私の意識は明瞭になる。

眼前の男が昔吐いた言葉は、この世が如何に平和なものであるかを、私に思い知らせた。
そうか、私は幸福な時代に生を受け、こうして時間を浪費しているのか。
垂れ流れている底無しの愛憎が渦巻いては、私の身体を引き摺ろうとして止まないのに。
血の滲んだ爪を噛む。黒く濡れた髪は振り乱れて、まるで鬼婆の様に。紅く擦れた膝を抱く私を、部屋の隅、陽光から逃げた暗闇が、そっと撫でた。

微笑むと口元に見える皺の、なんと言う愛しさ。
骨ばった長い指の、なんと妖艶な事。

貴方は、私にとって完璧な、具現化された愛だった。
貴方は、私にとって完璧な、崇高な人間そのものだった。
……全ては、過去形である。
こちらに微笑を浮かべる男の、額縁を抱いた。染み込んでくるような温もりも無く、強く抱き締め返す腕も無く、耳元で囁く甘い声も無く。

花は好きだと言った。
自らの散り際を知っていて、生きている間は目一杯に人々を楽しませ、季節の始まりの美しさを、己の身を以て知らせるからだと、貴方は言った。何よりも強かで、何よりも懸命だと。
私は、花が好きではないから、貴方の言葉に軽く相槌を打ったまでだった。しかし、過ぎ行く季節の中街を歩いていると、ふと目につくのはどれも鮮やかな花々ばかりで、そのどれもに貴方の面影を感じた。
この花を見たなら、何と言うのだろう。
この花の名は、何と言うのだろう。
気付けば花を探していて、その都度隣に目をやるが、当たり前の様に貴方の姿は無い。
あゝ、やはり花は嫌いだ。美しい花を眼前にしたこの悦びを、誰かに伝えてしまいたくなるから。その伝える相手が、もう私にはいないのだから。
額縁の横、硝子の花瓶に飾られた、一輪の胡蝶蘭。その花弁は蚕の繭のように白く、陽の光に艶めいていた。

また今日も、来る時間に、私は私を捨てなければならない。
貴方の嫌いな紅をひき、髪を結って、努めて淑やかに、素知らぬ顔で、好きでも無い男の濡れた瞳に、抱かれなければならない。
私はとても卑怯であるから、こうして時の経った今も、貴方の声が欲しくなる。貴方の優しいその指で、髪を漉いて欲しくなる。
もう本当の名前も、思い出せなくなってしまった。それで良い。私の名前を呼ぶのは、貴方で最後が良い。


足音に額縁を伏せる。
襖が開く。
顔が黒く滲んで見えない男が、私の着物を忙しく脱がした。肌が触れ合った時、開け放したままの障子戸から、木が見えた。桜色の花弁を一生懸命に開いて、青に揺れている。
本当だ。貴方の言った事は、本当だった。
しかし私にとって、この知らせはまんまが食べれないよりも、お叱りの鞭で叩かれるよりも、溝の淵に捨てられるよりも、もっと痛くて哀しい。

目を瞑れば、何時だってあの頃に戻れるのに。

桜の花弁が、甘い風に吹かれて緩く舞った。
………あと、何回。

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