ベトナム歴史秘話:最悪の皇帝は誰だ?欲望で悪名を残した5人の暗君・暴君達!
気に入らない僧侶の頭上でサトウキビを裁断。近親相姦で性的不能を治療。部下の妻を奪おうとして王朝ごと滅んだ。酔うと殺人鬼に変身。欲のままに生きて「豚」と呼ばれた皇帝。
かつてベトナムに君臨した皇帝は100名以上となりますが、その中には上記のような暴君、人々を苦しめて国を傾かせた暗君がいたことは、日本であまり知られていないでしょう。
今回は、中世~近世ベトナムで編纂された歴史書「大越史記全書」に書かれた原文の記述を探し出し、ベトナム史に悪名を残した5人の皇帝について紹介したいと思います。
1. 酔うと殺人鬼、悪魔と呼ばれ最後は大砲で粉々になった皇帝
後黎朝8代目の皇帝:黎威穆(れい・いぼく、Lê Uy Mục、在位1505~1509年)
歴史書が語る彼「威穆帝」の記述がこちら。
中国の明王朝から送られた使節代表の天錫見が皇帝に会った時の感想として「ベトナムには400年の幸せな時代があったが、なぜ今、天はこのような悪魔を遣わしたのだ」と言わせた人物です。では、どんな人物だったのか?
皇帝は即位後、毎晩宮廷で大酒を飲んで酔っぱらうと人を殺した。皇帝の残忍で気ままな感情で殺される人たちがおり、人々から家畜や食料、金銭や財産など一切を奪っていった。人々は怨嗟の声を上げたが皇帝はこれを改めなかった。また皇帝は疑り深く疑心暗鬼に駆られて臣下を咎めた・・・と、The暗君といった人物です。
もちろん、そんな皇帝にも最後の時が訪れました。
皇帝によって投獄されていた従弟(簡脩公)が獄吏に賄賂を渡して逃亡し反旗を翻して都に迫ると、皇帝は逃亡し毒を飲んで自殺します。簡脩公は以前に両親や兄弟を皇帝に惨殺されていた恨みを晴らすべく遺体へ大砲を発射。遺体は木っ端みじんに爆散しました。
死者に鞭打つという故事成語は有名ですが、恨みを買ったばかりに死んでから鞭ではなく大砲を撃ち込まれた君主がかつて存在したことを、ベトナムの歴史は教えてくれます。
2. 女性に全裸でボートを漕がせ、性欲が強くて豚と呼ばれた皇帝
後黎朝9代目の皇帝:黎襄翼(れい・じょうよく、Lê Tương Dực、在位1510~1516年)
なんと爆散した次の皇帝も暗君、ベトナムの民衆からすると皇帝ガチャで2回連続のハズレを引いたことになりますね。
上記で出てきた簡脩公は、即位して皇帝「襄翼帝」になります。前回同様、中国の明王朝からの使節が皇帝に会った際の感想は次のように残されています。
ベトナム皇帝(明の使節から見ると皇帝ではなく安南国王)は、イケメンだが変態的な性欲を持っており、まるで(欲のままに生きている)豚の王である・・・とまで言わせました。2代続けての酷い評価ですがどんな人物だったのでしょうか?
皇帝は、都(現ハノイ)に国の財源を使いつくして大規模な宮殿や庭園などを造成させて贅沢三昧をします。こういった贅沢や労役によって民衆は苦しみ兵士たちも疲弊し疫病に侵される一方、皇帝は宮廷の女性たち(補足:前皇帝の側室なども自分のものにしていた)に裸になるように命じて、ハノイにある西湖で裸のまま舟を漕がせて一緒に楽しんでいるといった様子が記録されています。
500年前、そんなことが行われていたハノイの西湖
なおこの豚と呼ばれた事は意外と有名な様で、ベトナム国立歴史博物館のサイトでもご丁寧にページを作って解説されているほどです。
そんな暴政を続けた皇帝も1516年、配下の将軍に裏切られて都で殺されてしまいました。2代続けての暗君もあって黎朝は弱体化、後に部下である莫登庸によって帝位は簒奪(禅譲)され、1527年より新たに莫朝が成立することになります。
しかしその莫朝さえも、わずか65年で事実上滅亡することになりました。そう、再び欲に駆られた暗君によって・・・
3. 自分を守る将軍の妻を我が物にしようとして王朝を滅ぼした皇帝
莫朝5代目の皇帝:莫茂洽(まく・もこう、Mạc Mậu Hợp、在位1564~1592年)
莫朝は、後黎朝から帝位を簒奪することで成立しましたが、支配領域は最盛期でも後黎朝の2/3と言われ、後黎朝を復興させようとする反莫朝勢が国内に存在し抗争を続けていました。そしてついには反莫朝勢が優勢となっていかに防ぐべきかという状況下で皇帝は何をしたのでしょうか?歴史書は語ります。
皇帝は大酒のみで放蕩を繰り返している生活でした。そんな時、山郡公といった高位にある裴文奎の妻に阮氏年という女性がおり、皇帝の妻の妹であったので姉に会うため宮中へよく出入りをしていました。(1592年8月)彼女を見た皇帝は、その美しさに心を奪われて人妻(阮氏年)を自分のものにしようとします。それを知った軍隊を率いている将軍・裴文奎は、自身の妻を奪われないように皇帝に反旗し・・・といった様子がこの先も続いていきます。
古代中国の時代から「一盗二婢三妾四妓五妻」などといった言葉があるように、皇帝にとって彼女は、どうしても手に入れたかった存在なのかもしれません。(意味:一~五は順位。盗=人妻、婢=使用人・メイド、妾=愛人、妓=風俗・芸人、妻=自身の奥さん)
しかし時代は、反莫朝勢が優勢でありそんなタイミングで軍を率いる貴重な味方をわざわざ敵方に寝返らせてしまう行為でした。欲に駆られた皇帝は正常に判断ができなかったのでしょうか。
1593年1月、反莫朝勢により皇帝は殺害され、一部勢力が中越国境地帯のカオバンに逃れて地方政権として続きますが、莫朝は事実上滅亡しました。
4. 怪しい薬と近親相姦で性的不能を治したギャンブル好き皇帝
陳朝7代目の皇帝:陳裕宗(ちん・ゆうそう、Trần Dụ Tông、在位1341~1369年)
彼についての記述も強烈です。
皇帝は性的不能(勃起不全)の病だったので医師である鄒庚は、皇帝に次のような治療法を進言します。「少年を殺して肝臓を取り出し、陽起石という鉱物と混ぜ合わせて薬として飲んでから、自分の姉・妹との性行為を行うと治る」。こんな胡散臭い話を皇帝は受け入れて、姉である天寧公主と性行為をすると皇帝の病気は治ったとあります。
鄒庚は寵愛を受け薬を届けるために後宮(ハーレム)に出入りし、そこで宮女と関係を持った持ったことがばれて死刑となりますが、上記薬で皇帝のインポを治療した功労もあったので助かったという話です。脱線ですがこの鄒庚という医者は、「庚承父業,遂成名醫」という記述から父の跡を継いで名医となったということも書かれていますが・・・えっ、名医???
とまぁすごい話ですが、この皇帝は別の意味で有名です。それがこちら
陳王朝の法律で賭博は厳しく禁じられていたものの、この皇帝(裕宗)の時、公然と富裕層を宮殿内に入れて王宮カジノを開催していたので、ついには国も賭博を規制することができなくなったという記述です。
治外法権の場所でのギャンブルとして現代では「大使館カジノ」なんて言葉もありますが、王宮で開催すれば誰も取り締まりができない。そう、彼はベトナムにおけるギャンブルの歴史を調べると出てくる有名な皇帝でもあります。他にも
ベトナム各地の富豪を募って宮殿内に入れて賭博を行い、一回で動いた金額まで記録されているほどでした。そして興味深い記述はこちら。
皇帝は(お忍びで?)舟に乗って陳鼓楼の家を訪ね、3泊して遊んできたときの話ですが、宝剣や皇帝の印鑑などを盗まれたとあります。これって盗まれたのではなく、博打に負けて財宝などを巻き上げられたのではないかな?・・・と考えられますが、皆さんはどう思いますか?
ちなみにモンゴル(元朝)撃退に成功するなど計175年も続いた陳朝は、この皇帝の悪政も影響してか彼の死後31年で滅亡することになります。
5. 僧侶の頭上でサトウキビを裁断、酒と女で痔になった?皇帝
前黎朝3代目の皇帝:黎龍鋌(れい・りゅうてい、Lê Long Đĩnh、在位1005~1009年)
後述しますが臥朝皇帝とも呼ばれていた皇帝です。
彼はベトナムでの暴君ランキングとかで必ず挙げられる人物ですが、その理由はなぜなのでしょうか?歴史書には次のような記述があります。
長いのは、それだけ具体的なエピソードが多いからですが皇帝は(残酷な)殺人を好んだとあり、次のような事例が紹介されています。
(1)芽(カヤ)を体に巻きつけて生きたまま火をつけて焼き殺す
(2)錆びて切れにくくなった刃物で生きた人間の体をゆっくり削がせて、苦痛に耐えかねた人が早く殺してくれと叫ぶと「こいつは、まだ死を受け入れることに慣れていない(のでもっと時間をかけます)」と執行者が解説し、それを見聞きしていた皇帝は大笑い
(3)捕虜を沿岸に作った牢に入れて、満潮時の水没で溺れさせて殺す
(4)人を木のてっぺんに登らせると、その木をすぐに切り倒して恐怖する姿や転落死するのを見て喜ぶ
(5)毒蛇がいる小川へ人繋いだボートを送り、あえて往来させて、その人が蛇に襲われるように仕向ける
(6)猫を殺して料理を作り、全員が食べ終わってから殺害した猫の頭を見せて事実を伝え、彼らが驚愕して吐いたりするのを見て楽しむ
といった残虐性を示すエピソードが満載ですね。さらには、
気に入らなかった郭昂という僧侶の頭上でサトウキビを小刀を使い割き、手が滑って頭上にあたって血が噴き出すのを見て大笑いした・・・ということも書かれております。これはTVドラマや映画などでも取り上げられるほど、有名な出来事で上記画像はそこからの引用です。さらには好色でもあり
中国の宋王朝に使節を送った際、使節らは(おそらくは皇帝が好みとするであろう)蕭氏という女性を騙してベトナムへ連れてくることに成功したので、皇帝は(よくやったとばかりに)彼女を後宮に入れて妾としてしまったという出来事もありました。
そんな彼にもついに天罰があったのでしょう。酷い痔を患ってしまい、座ることができなくなった彼は、寝そべったまま政治を行ったので臥朝帝と呼ばれるようになりました。なお人々による伝承(野史)では、皇帝が酒と女遊びに夢中になったため、それが理由で痔になったとも記録されています。
在位わずか4年、24歳の若さで皇帝が亡くなるとクーデターが起きて前黎朝は滅亡してしまいました。
以上5人の皇帝を取り上げましたがいかがでしたでしょうか?日本で暗君や暴君と言えば、日本史以外では中国史や東ローマ帝国、ヨーロッパの国王や皇帝などが有名ですが、ベトナムの皇帝においても存在しており、人類の歴史上、世界中のどこにでもいたことがわかります。
なお今回は、「大越史記全書」の記録を引用して書きましたが、歴史は勝者が作るものであるため、実際起こったこと以上に悪く書かれている(事実でないことも書かれている)可能性があります。
最後に取り上げた黎龍鋌についても歴史家の中では、実際はこのような悪行をしておらず、後の王朝が自らの正当性を主張するためにあえて悪く書いたのだろう・・・という見解を述べる人もいることを紹介して終わりたいと思います。
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6. 他にも表には出てこない歴史の秘話を紹介中
中国の暗君のエピソードは、ある意味もっと強烈です(笑)
暗君とは異なり、ベトナム史で人気のある皇帝についてです。
日本史上の暗君?としても有名な方のようで・・・
近世ベトナムの皇帝の名前で使われた文化についてです。
Youtube動画による歴史秘話も公開中です。
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