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ベトナム歴史秘話:中国皇帝に会いに行った国王は替え玉だった!乾隆帝をも騙したグエンフエの外交術とは?

替え玉受験のように別人が成りすます行為は、発覚すると大問題になりますが、かつてそれをトップ外交の場で行った国があるのをご存知でしょうか。しかも騙した相手は中国・清王朝最盛期の皇帝「乾隆帝」です。もしこういったことが発覚すれば軍事力による報復を受け、国家の命運をも左右される事態となることは避けられませんが、絶対に問題にならないと確信しての行動でした。

なぜ当時のベトナム国王は、一見そのような危ない橋を渡ったのか、そこにはどんな背景や思惑があったのか?

今回はベトナム史上で屈指の名将と言われ、トップクラスの人気を誇る不世出の英雄「グエンフエ」が仕掛けた替え玉外交をテーマに、現代にも繋がるベトナム対中国外交の巧みさについて紹介したいと思います。

1. 地方の土豪から皇帝になった男グエンフエ(阮恵)

前回書いた「あんなん国酔夢譚」でも触れましたがより詳しく紹介しましょう。18世紀末のベトナムでは、後黎朝は衰退し皇帝は名目上のものとなり、北部を支配する鄭(チン)氏と中南部を支配する阮(グエン)氏が争う時代が200年近く続いていました。

双方ともに腐敗や対外戦争の失敗などで農村は困窮しており、一方で支配者は贅沢三昧、飢饉が起こり流民が発生する状況下でも重税で過酷な取り立てが行われるといった状況です。そして中南部の西山(タイソン)を拠点して圧政に立ち上がったのが、支配者である阮氏とは全く別の一族、阮氏三兄弟です。阮岳(グエン・ニャック)、阮呂(グエン・リュ)、阮恵(グエン・フエ。以下グエンフエと記述)。

グエン3兄弟の像

1771年に蜂起し、1773年には中南部のクイニョンを攻め落とします。これをチャンスと見た鄭氏が北部から侵攻してきて、支配者阮氏の都である中部のフエは陥落。南部の嘉定(現ホーチミン市)に王族達は逃れていきます。

阮氏三兄弟が賢かったのは、ここで両方を敵にすることを避けて鄭氏に臣従する振りをしたことです。北からの安全を確保すると、1777年には嘉定を陥落させてることに成功。唯一生き延びた阮福暎(グエン・フック・アイン)を除き王族は皆殺しとなります。1778年、阮岳はクイニョンで西山王に即位し、西山王朝が成立しました。

ラックガム=ソアイムットの戦い

1785年には、シャム(現タイ王国)・ラーマ1世(現国王ラーマ10世の先祖)の軍事援助を受けて再び侵攻してきた阮福暎を、メコンデルタ地帯・現在のミトー付近で行われたラックガム=ソアイムットの戦いにてグエンフエが打ち破ります。命からがら逃れた阮福暎は、新たな軍事援助を求めて(革命直前のフランス王国)ルイ16世の元に息子を送り再反撃の機会を待つことになりました。

象同士の戦い

南方を平定した西山朝は、鄭氏を倒すべくついに北伐を開始します。グエンフエは1786年にフエを陥落させると鄭氏の居城である昇隆(現ハノイ市)を落として鄭氏を滅ぼしました。1787年ベトナム全土を手に入れた西山朝は、支配地を三分割し、フエからハノイといった北部が(北平王)グエンフエ、クイニョンを都に中南部が(皇帝に即位し泰徳帝となった)阮岳、ホーチミンなど南部が(東定王)阮呂の支配地となります。

実は、グエンフエがハノイを手に入れた時、名目でしかなかった後黎朝の皇帝「昭統帝」も支配下に置いていました。しかしグエンフエを嫌った昭統帝は、宗主国である中国皇帝の乾隆帝に助けを求めて清へと逃亡してしまいます。

2. 清朝軍を壊滅させた大勝利~ドンダーの戦い~

冊封していた後黎朝からの懇願を受けた清は、1788年10月ベトナムへの侵攻を開始すると11月にはハノイを陥落させることに成功します。後黎朝の昭統帝は再びハノイに入りますが、元々統治能力などは全く無いため清朝の傀儡でしかありませんでした。そんな状況下で清軍は、兵站(食料等)の確保に苦しみ撤退をも望むようになります。

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1788年末に川を渡り進撃する清軍(中央~右側)。左側で遠くに逃げているのが西山朝の軍隊です。何枚か存在しますが清側が描いた絵なので戦争序盤の清が勝っているシーンだけが描かれているのが特徴です。

一方でハノイを落とされたくらいでは、グエンフエは全く動じません。兄の阮岳とも既に争っていた彼は、12月に自ら皇帝へと即位し清とも戦う気満々でした。光中という元号を用いたことから光中帝(Quang Trung)とも呼ばれます。そして戦象数百匹を含む10万の大軍で北上した彼は、1789年1月3日~5日にかけてハノイで行われたドンダーの戦いで清軍を壊滅させることに成功し、歴史的な大勝利をものにします。

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現在クイニョンの博物館にあるグエンフエの像

しかも彼は単に強いだけの人物ではありません。現実を見て何が最適かを判断することができ、さらにその為の知恵も兼ね備えている人物でもありました。

3. 欲しいのは名だけか、実までもか?

さて中国皇帝・乾隆帝の功績には、「十全武功」と呼ばれる10回の対外遠征があります。彼はその全てに勝ったとして自らを「十全老人」と称するほどでした。十全とは完全をも意味します。そしてこの10回の中には、ベトナム侵攻(ドンダーの戦い)も含まれています。3万以上の死者を出して清軍が壊滅した結果だったのに清朝の勝利?・・・そこには理由がありました。

乾隆帝2

乾隆帝の時代は清朝最盛期とされますが後期には、汚職や賄賂で清朝の国家予算15年分を蓄財した和珅に代表されるように、既に綻びも出ていました。

グエンフエとしては、中国本土まで侵攻して清と全面戦争を継続するほどの軍事力が無いことは認識していたことでしょう。そして彼にとって優先すべきは、南側に位置する兄の阮岳と争っていた関係上、清軍をベトナム国内から追い払った状態を維持し北側の恒久的な安全を確保することです。その為には、形式上の降伏をして清朝に臣従し冊封を受け臣下「安南国王」となる必要がありました。参考までに皇帝の称号はあくまでもベトナム国内(および中国以外の周辺国)だけ、対中国では国王としての立ち位置になります。

またいったん臣下となれば、必要に応じて宗主国である清朝から軍事援助を得ることもできるので阮岳との争いにも有利であり、さらに貢物を持って朝貢すれば、その何倍もの返礼品(回賜)を受けとることができるので、経済的なメリットも非常に大きなものとなります。

三跪九叩頭之禮

しかし中国皇帝の臣下になるということは、使節がやってきた際、皇帝の代理人である使節に対して、三跪九叩頭の礼(端的に言えば連続9回の土下座)をしなくてはいけません。名誉に関する価値観が現代よりもはるかに高かった時代、これは彼にとって耐えがたい屈辱であったことでしょう。何せ彼は負けたどころか清軍相手に大勝利もしているわけですから。

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昭統帝(中央)の場合、三跪九叩頭の礼をして自ら援助を願い出ている

そこでグエンフエは、はたして形式上の臣従でも乾隆帝を満足させることができ、それにより安全や利益が確保できるのか=乾隆帝は名だけを求めているのか、それとも実までを求めているのか?、それを探るための秘策を打ち出します。

4. 中国皇帝の真意を探るために仕掛けた罠!

1789年、グエンフエの長兄で早逝した阮光華なる人物の子供、つまり「グエンフエの甥」と称する阮光顯が代表となり、請降使(降伏を懇願する使節)を清朝に送ります。そしてこの降伏を求める嘆願書と貢物をもった使節が来たことは、乾隆帝を大変喜ばせたはずです。

乾隆帝写真

学習院大学東洋文化研究所「清乾隆帝画像写真乾板」より

乾隆帝からしてみればちょっと前に”軍を送って懲らしめた”南の蛮族どもが、乾隆帝の徳を慕って"どうぞ許してください"とわざわざ北京までやってきたわけですから、こんなに痛快なことはありません。しかも受け入れれば戦争に負けたのに名目上は、勝ったことにできるのです。

グエンフエの甥が北京にやってきた

北京故宮博物館所蔵「平定安南得胜图」には、グエンフエが派遣した甥の阮光顯が乾隆帝に謁見し、宴を賜った様子が描かれている

しかし当時北京には、ハノイから亡命していた後黎朝の家臣達もいました。そして彼らは口々に清朝へ真実を告げていったことでしょう。グエンフエは3兄弟であり阮光華なる人物もいなければ、その子という阮光顯も本来存在しない。あれは甥ではなく偽物だろうと。

これこそがグエンフエの狙いでした。

もう2度とグエンフエとの戦争などしたくもなく勝利の名誉も取れるチャンスに、清朝は告げ口の事など見て見ぬふりをします。それゆえ「清朝が形だけでよい臣従を必要としている」と彼は知ることができました。そして彼は次の手を打ちます。

彼を「安南国王」に任命する册封使がベトナムへとやってきます。彼はここで自分の替え玉として范公治という人物を送り込み、彼に三跪九叩頭の礼をさせ、自分自身が一切跪くことなしに中国皇帝から「安南国王」の称号を得ることもできました。册封使は式典を終えるとすぐに帰ったと言いますから、西山朝の歓待の程度がどのようなものだったのかが伺えます。そしてこれが後に問題になることはありませんでした。彼はこれで清朝側の裏事情を確信できたのでしょう。そしてついにその時が訪れます。

5. 問題にならないことを確信して送り込んだ替え玉の安南国王

話は少し前に戻りますが1789年に北京を訪れた請降使の時に決まったことが1つありました。翌年1790年8月に予定している乾隆帝の80歳のお祝い式典である「八旬萬壽慶典」へグエンフエ自らが参列することです。つまり乾隆帝へ直に三跪九叩頭の礼をすることを意味します。

乾隆帝1795年

1795年の乾隆帝:大英図書館蔵 アジアとヨーロッパの肖像展(2009)

ベトナムの歴史を振り返ると10世紀(中国では北宋の時代)に独立してから800年以上、逃げてきたわけでもない現役のベトナム国王が自ら中国皇帝の都に出向いて直接跪くことは一度も無かったはずです。そんな歴代中国皇帝が誰も成し遂げたことが無いことを乾隆帝は実現したかったわけです。

そこでグエンフエは、ハノイで册封使に使った替え玉「范公治」を"グエンフエ"として北京へ送り込みます。彼は確信していたはずです。乾隆帝の一世一代の面子がかかった一大式典において、臣従した国から替え玉が送られてきたなんてことが発覚したら、周辺国からなめられている証拠として皇帝の名声や権威に大いに傷がつくはず。乾隆帝は既に80歳で晩節を汚すことを恐れているし、清朝の官吏達にとっても命がけの責任問題となる。よってグエンフエや替え玉自身が秘密を暴露しない限り、清朝側からこの件で何か指摘されることは100%無いのだろうと!

乾隆八旬萬壽慶典圖之安南國王1 (1)

「乾隆八旬萬壽慶典圖之安南國王」図より。中央の輿の中が乾隆帝、その右上側で跪いているのが安南国王グエンフエ(の替え玉)

乾隆八旬萬壽慶典圖之安南國王2

結果は予想どおりでした。替え玉は破格の待遇で歓迎され、なんと肖像画まで描かれました。

安南國王阮光平圖

1981年のサザビーズのオークションカタログに掲載されたという肖像画の写真「新封安南國王阮光平像圖」

ベトナム側の記録でグエンフエは、巻き毛、ゴツゴツした肌、声は鐘のように大きく、眼は雷光のごとく鋭く、機敏で健康で勇敢、若いときは100kgの米俵を持ち上げたという怪力を活かし、誰も持ち上げられない重い槍を振り回して自ら第一線で戦った・・・という豪傑の様な特徴が記録されている人物ですが中国で描かれた替え玉「范公治」の風貌は、当然ながらだいぶ異なりますね。もちろん清朝の公式記録上は、グエンフエ本人が来たことになっています。

グエンフエとみられるレリーフ

石に彫られたグエンフエと言われるレリーフ

そして数多くの下賜品を持ってベトナムへ帰国した替え玉を見て彼はほくそ笑んだことでしょう。「俺は、あの乾隆帝を手玉に取ったのだ」と。そして実施された朝貢を通じても、多くの富をもたらすことに繋がりました。

6. 肖像は残らなかったが名声は残った

しかしそんなグエンフエの時代は、ベトナム史においてわずかな期間でした。替え玉から2年後、フランス人宣教師ピニョーの援助を受け南部の嘉定を奪い返していた阮福暎を倒すべく出陣したグエンフエは、1792年9月16日に急死、享年39歳。白血病だったとも脳卒中とも言われています。そして歴史は、西山朝から次のグエン朝へと移り変わっていきます。

1802年、西山朝が滅ぼされると阮福暎による徹底的な報復が行われます。かつて西山朝により阮氏一族の墓が暴かれていたこともあり、グエンフエの墓も暴かれ、遺骨は象で踏みつぶされたと言われます。この時、おそらくは彼の肖像画も失われたのでしょう。そう、あの中国国内に残された”北京を訪問したグエンフエ”の肖像画を除いては・・・

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南ベトナム時代には、紙幣に描かれていたグエンフエ。ただしこの肖像は想像画と考えられます。

さて、いつの時代でも隣国は変えられず、ベトナムに比べて中国は、過去も現在も大国であり、その差はいかんともしがたいです。しかしながらある面では敵対し、ある面では強固に結び付き、ある面では一歩引いて、ある面ではうまく活用することもできる。

そのような中国に対するベトナムの巧みな外交術は、200年以上前にもグエンフエという不世出の英雄を通じて既に行われていた・・・それが彼の国民的人気にも繋がっているのではないでしょうか。

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7. 以下の資料や文献を参考・引用にしました

〔解說〕平定安南戰圖 高田時雄(京都大学人文科学研究所教授)

北京におけるベトナム使節と朝鮮使節の交流―15 世紀から18 世紀を中心に―清水 太郎(東南アジア研究 48巻3号 2010年12月)

阮恵「逆賊」から「救国の英雄」に 東大名誉教授・本村凌二(2013/8/22 08:02)

清史研究国际通訊 中国人民大学清史研究所主办(中国語)

グエンフエとザーロン帝へのコメント(ベトナム語)

なおグエンフエが乾隆帝に派遣した阮光顯については、史料では「姪(てつ)」となっています。この漢字の意味は、「自分の兄弟の子」であり「姉妹の子は甥(せい)」というらしいです。現代の日本語の漢字の意味と異なるので本文では現代語の「甥」として記述をしています。

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