中国歴史秘話:女性への失言で殺された・変態的な薬が原因で殺されかけた"しくじり"皇帝達
事実は小説よりも奇なり。かつて「変態的なお薬」の愛用が原因で宮中の女性達から恨みを買い殺されかけた皇帝がいました。そして「女性への失言」により命を落とした皇帝もいます。中国の歴史書に記された驚くような事件です。
絶対的な権力者である中華皇帝にとっては、通常なら安全なはずの宮殿内で、なぜ女性達からそこまで恨みを買ったのか?
今回は、中国の歴史書が語る2人のしくじり皇帝について紹介します。
1. 壬寅の年に起きた皇帝暗殺未遂事件
2022年は、壬寅(みずのえとら)。干支は、60年周期で繰り返されますが計8回遡った480年前の壬寅(西暦1542年)に中国の宮殿内で起きた出来事があります。後に「壬寅宮変」や「宮婢の変」と呼ばれる事件です。
殺されそうになったのは、明王朝、第12代皇帝の嘉靖帝(かせいてい。在位1521~1567年)。
まず次の清の時代に編纂された明王朝の公式歴史書『明史』には、どのように書かれているのでしょうか?なお以下の「世宗」とは、嘉靖帝の死後につけられた廟号のことです。
単に宮中で謀反があって妃である曹氏や王氏といった女性達が処刑されたとありますが、さすがに公にしづらい宮中での不祥事ということもあって、詳細が書かれておらずこれだけではよくわかりません。そこで別史料としてこの事件の64年後、1606年に書かれた『萬暦野獲編』を見てみましょう。
この作者である沈徳符の父は、皇帝の親戚と交際がありそこから知り得た情報などがまとめられたもの(野史)です。この十八巻には、いくつかの刑事事件が記録されており、そこに『宮婢肆逆』(きゅうひしぎゃく)として事件が記録されています。(”肆逆”とは、裏切りや反逆といった意味)
宮中の女性達(宮女)は、嘉靖帝が寝ているところを襲い、口を猿轡で覆い、首を縄紐で縛って絞殺しようとします。しかし宮女たちは縄の結び方をよく知らなかったので、皇帝の呻き声などが建物の外まで出てしまいました。
これを知った孝烈皇后は、直ちにこれを阻止することに成功し暗殺は未遂に終わります。実行者である宮女達16名、犯行には参加しなかったものの供述により首謀者とされた王氏、暗殺計画を知っていた曹氏および連座した彼女らの親族が処罰されました。(ちなみに首謀者らは、凌遅刑という生きたまま少しずつ肉を切られる残酷な処刑方法です)
暗殺は未遂に終わりますが、皇帝は一時意識不明であり、また続く文章にも
「聖躬甚危」(皇帝の体は非常に危険な状態にあった)
「上忽作聲,起去紫血數升」(皇帝は突然立ち上がり、大量の紫の血を吐いた)
と書かれているため、皇帝はギリギリのところで助かった様子が伺えます。
儒教的な価値観が一般的だった当時の社会では、信じられないような大事件でしょうし、宮女たちは皇帝へ気に入れられたり寵愛を受けようとすることはあっても普通は、毛嫌いして殺そうとは考えないはずです。
ではなぜこのような事件が起きたのでしょうか?ここには犯行の動機は書かれていませんでしたが、『宮婢肆逆』の事件を記した項目の最後には、ヒントになりそうな記述がありました。
2. 殺害未遂に関係する「変態的なお薬」とは?
事件に関する項目の最後には、なぜかまったく事件と関係ないような上記文章が書かれています。
内容はというと、嘉靖帝は道教を信仰しており道士である邵元節や彼が亡くなると道士の陶仲文(1475~1560年)を重用していました。彼らは、皇帝に不老長生の効果や媚薬的な強壮効果がある霊薬(丹薬)として『紅鉛』や『真餅子』といった薬を献上しており、皇帝はそれを愛用していた様子が伺えます。それはどんなものだったのか?
まずこの『真餅子』、生まれたばかりの赤ちゃんが口に含んでいた血液とあります。さすがに筆者である沈徳符も、こんなものが当時なぜ優れた薬として使われていたのか謎だと、あきれ顔で書いています。
これだけでも十分に『変態的なお薬』といえるのかもしれませんが、もう1つの『紅鉛』とは何でしょうか?これを探るため、同時代に書かれた薬学書を調べてみました。
事件から36年後の1578年に完成し、江戸時代には日本にも輸入されて薬学書として活用されたことで有名な『本草綱目』という書籍があります。ここから該当箇所を探し出してみると驚きの記述がありました。
『本草綱目』の作者である李時珍(1518~1593年)は、ちょうど壬寅宮変(1542年)の時代を生きた医師ですが、彼によると『近頃は、処女の初潮(生理)の血を紅鉛と称して希望者に飲ませて、愚か者たちを煽る悪しき道士もいる』と記述があります。はたして嘉靖帝は、そんなモノを霊薬として飲んでいたのでしょうか?
そこで再び『萬暦野獲編』を調べてみると二十一巻には、
嘉靖帝の時代、陶仲文によってそれが用意され皇帝は服用していたと見られる記述がありました。つまり『本草綱目』に書かれていた悪しき道士とは、陶仲文らを指していたとも考えられます。その場合、愚か者は嘉靖帝を指す訳ですが、さすがに同時代であって実名では書けなかったということですね。
3. なぜ変態薬が皇帝暗殺未遂へと繋がったのか?
ではなぜこの薬が、皇帝暗殺未遂に繋がったのでしょうか?実は、それに関係しそうな記録があります。明王朝の各皇帝の日々の出来事をまとめた『明實錄』です。嘉靖帝(世宗)についての記述を調べていくと、ざっと見ただけで次のような記録がありました。
上記記録だけでも17年間に1060名も宮女として後宮に入れており人数が非常に多く、しかも十歲以下とか、八歲から十四歲といった年齢も記述されています。彼女たちが後宮へ連れてこられた目的を調べてみると、それも 『萬暦野獲編』には書かれていました。
陶仲文の発言によれば、少女たちを後宮に入れたのは「薬(紅鉛)を作るため」でありこの取り組みを「先天丹鉛」と名付けています。そしてこの薬を長期間にわたって服用すれば、長生きできるとあります。
つまり彼女たちは、薬を作るための原料製造装置として後宮へ大量に連れてこられていた訳です。ではどのような待遇だったのか? 歴史書内からは具体的な記述が見つかりませんでしたが、WEBや書籍には色々載っています。
ソースが不明確なので本当かは不明ですが、彼女たちは地獄のような環境に耐えかね、こんな『紅鉛』を愛用している皇帝を殺すことで、この苦痛から逃れようとした様子が伺えます。上記引用文章の最後には決起にあたって、「(殺害を)始めよう!皇帝から殺されるよりはましだ!」といった表現もあります。それが失敗してしまい凌遅刑に処されるとは、まさにディストピア。宮女達にとっては「嘉靖は虎よりも猛し」でした。
もっとも犯行に加わらなかった王氏や曹氏という地位の高い妃も処刑されていることから、事件の背景には後宮における女性たちの権力争いであった可能性も考えられます。(または逆に事件が権力争いに使われた可能性も・・・)
なお、この変態的なお薬の効能なのか、事件後に蘇生してからさらに25年も長生きした嘉靖帝は、当時としては比較的長寿である60歳で亡くなりました。在位45年間は、中国歴代皇帝の中で8位、明王朝では2位の長さにもなります。そりゃ司馬遷でなくても「天道是か非か?」(天は善人に味方して悪人を滅ぼすなんてことは、本当にあるのだろうか、それともないのだろうか)と言いたくもなりますね。
ちなみに明王朝の在位1位は、実質こいつの時に明が滅びたと公式歴史書『明史』にも書かれたニート皇帝、万暦帝の在位48年間だったりもします。
さて未遂に終わった宮中弑逆(しぎゃく、主君などの殺害行為)ですが、この事件の1146年前には成功しています。そしてその発端は、女性への失言でした。
4. 女性への失言で殺されてしまった皇帝
三国志の時代を経て晋(西晋)が全土を統一したものの、八王の乱を経て五胡十六国時代となり、中国南部へと逃れ南の支配者となった東晋の後期のことです。
北部を統一した前秦による南部侵攻を、将軍である謝玄が淝水の戦い(383年)で打ち破るなどして、東晋が一時安定した時代の皇帝が孝武帝(在位372~396年)でした。
しかし有能な謝玄が388年に亡くなると、皇帝は酒におぼれて暗君化していきます。そして396年、宮中で事件は起こりました。晋の公式歴史書である晋書は語ります。
意訳すると以下のような感じです。
張貴人は激怒したとあるものの、誰が殺したのかは書いていないですし、犯人も見つからなかったとあります。(もっともバレバレですが・・・)
では別の資料として、東晋のあとの南朝「宋」の時代に檀道鸞によって書かれた「續晉陽秋」を見てみましょう。
こちらも意訳してみます。
こちらの方が表現がリアルで、張貴人の怒りにより殺されたことがわかります。おそらく酔った勢いで発した一言(失言)が原因で、自ら命を失うことになるとは、皇帝として思いもしなかったことでしょう。まさに「キジも鳴かずは撃たれまい」でした。
ちなみに為政者のあるべき姿を語り、帝王学の書として有名な「資治通鑑」においても、ちゃんと反面教師・戒める事例としてか紹介されていました。
孝武帝の跡を継いだのは、長男の安帝ですが意思疎通は難しいほど重度の知的障害者であったこともあり、親族による専横・部下の反乱と皇位簒奪が行われ1度は復位したものの殺されてしまいます。その後別の傀儡皇帝(恭帝)を経て、420年に東晋は滅亡してしまいました。
よって事実上、東晋は孝武帝の急死から一気に滅亡へと繋がっていったわけですが、その発端が「失言」だったことになります。三国志で英雄たちが争うもその三国は晋によって統一され、時代を経て南へ逃れて東晋となり、その最後に影響したのが女性への失言だったとは!
まさに歴史を変えた一言(失言)なのかもしれません。
ところで日本でも昨年、このような発言がニュースになりましたが、時代と場所が違えば彼の命も危うかったのかもしれませんね(苦笑)
「事実は小説よりも奇なり」2つの事件は、いかがでしたでしょうか?
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5. 歴史の秘話をあれこれ書いています
上記、嘉靖帝や孝武帝に負けないエピソードを持つベトナムの暗君達。
他にも様々な歴史秘話があります。
PS:ところで『萬暦野獲編』ってあれだけ内部事情を暴露しているとはある意味、明王朝時代の文春砲かと(笑)
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