中国・ベトナム歴史秘話:俺たち孝武帝~やらかした5人の皇帝達~
孝武帝。儒教的価値観では重要な「孝」と覇業を意味する「武」の2文字により字面からは、道徳と勇猛さの両方を兼ね備えた皇帝のように思えますが、はたして彼らはその名前通りの皇帝であったのでしょうか?
今回は、中国とベトナムに存在した計5人の「孝武帝」をテーマに、歴史に記録された彼らのやらかしについて紹介したいと思います。
1. 「孝武帝」とは何か?~諡号について~
まず前提知識として諡号(しごう)について簡単に解説したいと思います。
日本では、諡(おくりな)とも言われますが、これは皇帝や王侯といった支配層(上層階級)の人たちに対してその死後、生前の業績を評価されて贈られる名前となります。よって生前からその諡号を本人が名乗っていた訳ではありません。
例えば中国史で斉の「桓公」、隋の「煬帝(ようだい)」といった名前を聞いたことがある人も多いと思いますが、これが諡号です。正確には、前の”桓”や"煬"が諡で、後ろに”皇帝”や”王”や”公”が付いて諡号となります。
似ているけど異なるものに廟号(びょうごう)と呼ばれるものがあります。中国では、昔から先祖への崇拝が行われていますが、この先祖を祭るための廟に載せるための名前です。唐の「太宗」(李世民のこと)や、明の「太祖」(朱元璋のこと)、清の太祖(ヌルハチのこと)などが有名ですね。
さて諡号に使われる漢字には、「美諡(上諡)」(びし・じょうし)と言われる良い意味の漢字、普通の「平諡(中諡)」、悪い意味の漢字の「悪諡(下諡)」と呼ばれるものがあります。例えば、
美諡には、「文」「武」「孝」「明」「徳」・・・
平諡には、「淵」「懐」「閔」「凱」「息」・・・
悪諡には、「霊」「煬」「紂」「惑」「醜」・・・
悪諡には、いかにも悪そうな意味を持った漢字が使われていることが、現代日本人であってもわかりますね。
さて「孝武帝」ですが「孝」と「武」といった美諡が使われており、本来は生前素晴らしかった人に対して贈られる諡号のはずです。本来は!
なお今回、一般的に呼ばれている名称の「孝武帝」と書いていますが、正式には5人とも「孝武皇帝」となります。
前置きが長くなりましたが、では歴史上存在した計5人の「孝武帝(孝武皇帝)」について見てみましょう。
2. 女性への失言で殺された孝武帝
東晋の第9代目が孝武帝(在位:372~396)です。
かつて寵愛していた女性が年を取って30前後となったので、酔った勢いでふざけて「お前はお払い箱ね。朕は若い女が良い」といって怒りを買って殺された皇帝です。前回取り上げたので詳しくは、下記記事内の下部をご覧ください。
最初から名前負けした感のある孝武帝でしたが、これが遠因となり結果的に東晋が滅ぶと中国南部には、宋が建国されます。後の統一王朝宋と区別するため南朝宋とも呼ばれます。そして宋にも孝武帝はいました。
3. モラル崩壊家族の中心であった孝武帝
南朝宋の第4代目が孝武帝(在位:453~464)です。
まず彼の兄(劉劭)が父親(第3代皇帝の文帝)を巫蠱で呪い殺そうとしたのがバレてしまい、皇太子を取り消されそうになったので父親を殺します。そして一時的に皇帝につきますが、3か月後に弟である劉駿(後の孝武帝)が兄を殺して皇位を継承します。そして兄の皇帝就任は、存在しなかったことにされたのでこの兄には、諡号も廟号も存在しません。
そうやって皇帝についた孝武帝ですが、即位後にほかの兄弟を一族ごと殺したり、一般市民を殺したり、贅沢をするために税を重くするなど暴君でもありました。そして南朝宋について書かれた歴史書「宋書」(後に南朝梁の沈約が作成)には、こんなことも書かれています。
第3代文帝の側室で孝武帝の実の母親である路淑媛(実名は、路惠男)という女性がいましたが、なんと息子である孝武帝ともベッドを共に(近親相姦)しており、このような醜聞が広がってしまい一般民衆も大騒ぎとあります。
なお、面白いのは宋書の作者である沈約による、「これは宮中における秘め事なので真偽は不明」といった一文(免責事項)が最後についているところです。日本の関西弁における「知らんけど」と使い方は同じですかね(笑)
では、本当かどうかを調べるため別の資料も観てみましょう。当時中国北部を支配していた北魏の歴史書「魏書」(後に北齊の魏收が作成)には、
劉駿(孝武帝)の性欲には節度がなく、その母親の路惠男ともやっておりその醜聞は、遠く甌越(ベトナム北部近辺?)にも知れ渡っていたとしっかり書かれています。では、孝武帝の子供たちはどうなのか?
孝武帝の死後、息子の劉子業が皇帝となりますが、南朝(宋~陳)についての歴史書「南史」(後に唐の時代に李延寿によって完成)には、こう書かれている人物です。
生前の父「孝武帝」に愛されなかったの彼(劉子業)は、恨みから孝武帝の墓を暴こうとし、それを止められると墓に糞尿をかけて父を罵り、さらに父の側室の墓を暴いたとあります。どんな父子関係であったかがわかりますね。さらには、
父である孝武帝の弟、つまり叔父にあたる人たちを「豚王」「殺王」「賊王」という蔑称で呼んでいたとあります。このうち太っていた劉彧という人が豚王であり、彼を裸にして泥水の張った地中の檻に入れて、残飯を豚のように食わせてそれを見て楽しむといった様子で、ほかにも残酷なエピソードが満載のやりたい放題でした。
彼は、最終的にはこの劉彧によって殺されて(なんと享年16歳)、皇帝位を取り消されてしまい歴史は彼を「前廃帝」と呼びます。"前"とあるようにちゃんと南朝宋には、もっと酷い「後廃帝」も存在します。
では孝武帝の娘はどうか?前廃帝(劉子業)の姉である劉楚玉(山陰公主)は当時から美女として有名でしたが、弟(劉子業)とは近親相姦の関係であったともいわれます。しかし、それ以上に彼女を中国の歴史上で有名にした一言があります。
陛下(前廃帝)と私は、同じ父親(孝武帝)の子どもでありながら、陛下の後宮には山ほど側室がいるのに、わらわには夫が一人しか与えられていないのは不公平だと主張。この正論?に納得した前廃帝は、山陰公主に30人のイケメンを与えたという出来事です。
現在の男女平等からするともっともな理屈かもしれませんが、当時の儒教的価値観からするとありえない発言であったこともあり、中国の歴史上もっとも淫乱であった女性として、「山陰公主」で画像検索するとどんな感じの女性かイメージがイロイロ出てきますので興味ある人はどうぞ。なお山陰公主も劉彧によって殺されます。享年20歳。
そしてこの叔父の劉彧が第6代皇帝「明帝」になりますが、猜疑心が強く自らの地位を脅かす存在である兄弟および、甥や姪にあたる孝武帝の子供たちを全員殺してしまう人物でした。"明"も美諡なんですけどね。
さらには、この劉彧の子供が殺人鬼と言われる第7代皇帝「後廃帝」(劉昱)です。どのくらい酷いかというと、
ある日、強盗殺人というのをやってみたくなった後廃帝は、金持ちの家に押し入って殺される間際の主人から「お前の罪は、夏の桀王、殷の紂王※よりも重い。お前は、ろくな死に方をしないぞ」と罵声を浴びせられたことがありました。
また、宮殿から外出しては通り魔的な殺人を行うのを好み、それができなかった日は欲求不満で悶々と不機嫌になったことから天性好殺=生まれつきの殺し屋と記録されたのが後廃帝です。ちなみに皇帝だった期間は、なんと9~14歳。今から1600年前だったので少年Aではなく実名が歴史書に記録されてしました。
以上、孝武帝の話なのにだいぶ脱線しましたが、母親、兄、本人、息子、娘、弟、甥と家族皆道徳的にアレなところがあって、そんな家族に囲まれていたのが「孝」が付いている孝武帝でした。
そして後廃帝が享年14歳で殺されてから傀儡皇帝の2年を経て宋は滅亡します。しかし続く南朝斉には、なんとたった23年間の短命王朝なのに皇帝7人中3人もの廃帝がおりますので、宋と斉は、暗君・暴君の宝庫ですね(苦笑)
では中国北部を治めていた北魏はどうだったのでしょうか?北魏にもちゃんと孝武帝がいました。2人目の一族が酷すぎて長くなりましたが、ほぼ近い時代の3人目を紹介します。
※夏の桀王、殷の紂王:いずれも王朝を滅ぼした有名な暴君のこと。
4. 従姉妹との4Pで人間失格とされた孝武帝
北魏の第13代目が孝武帝(在位:532~535)です。
彼の時代、北魏はすでに衰退しており事実上、傀儡皇帝でした。権臣である高歓(こうかん)によって皇帝に担がれた彼ですが後にそれを嫌って、別の権臣である宇文泰(うぶんたい)を頼り、最終的に北魏は東西に分裂してそれぞれ新たな傀儡皇帝が擁立され高歓側の東魏、宇文泰側の西魏となりました。
さて特段取り上げる業績もあまりない孝武帝ですが、中国北部を支配していた北朝(北魏~隋)について書かれた歴史書「北史」(後に唐の時代の李延寿によって完成)には、こんなことも書かれています。
孝武帝の乱れた女性関係の事例として愛人関係におくべく、あえて結婚させなかった3人の従姉妹(平原公主の明月、安德公主、亦封公主の蒺藜)が紹介されています。そして宴の際に読まれた詠として「願わくば、明月さんに続いて孝武帝の懐に入りたい(4人でやりたい?)」といった意味深な詠までもが歴史書には掲載されています。
しかし歴史は残酷でした。孝武帝が宇文泰を頼って、洛陽から西の長安に逃れる際に「明月」1人だけを伴って逃げた為、蒺藜は自殺し安德公主は置き去りにされて後に悲惨な目に遭い、この4人の関係は終わります。そして寵愛する明月は宇文泰によって殺されたので、宇文泰との関係が悪化し、最終的に孝武帝も宇文泰によって殺されてしまうという結末でした。
その1000年後、明末・清初の思想家で儒学者でもある王夫之(おうふうし)が、歴史書「資治通鑑」を読み解いて作成した著書「讀通鑑論」においても
「孝武帝(本名:元修)の淫乱っぷりは、人としてあるまじきものである」と手厳しく非難されてしまいました。
よって特に「孝武帝」という諡号が贈られるほどの何か業績があるわけではありませんが、歴史書に「従姉妹と4人で乱交(4P)していた」という点で人間失格と評価された皇帝、それが北魏最後の皇帝「孝武帝」でした。
以上3人の孝武帝だけ見ても、五胡十六国・南北朝時代、なぜ長期にわたって中国が統一されなかったのかがなんとなく伝わってきます(笑)
一方で歴史上ちゃんとした業績も残しつつも、やらかした孝武帝がいるをご存じでしょうか。
5. 俺を呪ったと息子・娘・妻を冤罪で殺した孝武帝
世界史の教科書にも必ず出てくる前漢最盛期、第7代目が孝武帝(在位:前141~前87)です。通常は漢の武帝と呼ばれる人物ですが彼の諡号は「孝武皇帝」ですので、孝武帝でもあります。
ではなぜ一般に武帝と呼ばれているのかというと、実は漢王朝の皇帝の諡号のほとんどには、頭に”孝”の字が付いているため、”孝”を省略され呼ばれているのが理由です。
漢の文帝=諡号は、孝文皇帝
漢の景帝=諡号は、孝景皇帝
漢の元帝=諡号は、孝元皇帝
よって今回はチーム「孝武帝」の一員として紹介します。
彼の治世は54年間と非常に長く、郷挙里選といった官吏任用法の制定、五経博士の設置による儒学の復活といった内政に加え、北の匈奴を打倒し西域も影響下に入れ、南では南越国、東では衛氏朝鮮を滅ぼすなど領土を広げたころから、ある意味「孝武帝」といった諡号にふさわしい業績を上げているとも言えます。
しかし度重なる外征は、財政逼迫を招き塩・鉄・酒の専売、均輸法・平準法による統制経済、増税などで民を困窮させて流民化。反乱も相次ぎ、役人の腐敗などもあって人々を大いに苦しめました。また李陵を弁護しただけで史記の作者である司馬遷が死刑(減刑されて去勢を受ける宮刑)となった話のように、気分次第で多くの人を処刑しましたことも有名です。そして財政難の解決方法として、勘気に触れた人物に死刑を宣告してそれを許すため莫大なお金を巻き上げるといった身代金目的の恐喝行為も多用し、暴君としての一面も大きい人物です。
そんな彼の一番のやらかしが治世50年目の前91年に起きた巫蠱の禍(ふこのか)と呼ばれる大事件です。巫蠱とは、特定の人を呪うため木製の人形に呪いをかけて地中に埋める行為であり当時では、重罪でした。
佞臣である江充を使った巫蠱の摘発は、でっちあげや拷問、お互いに罪のなすりつけで数万人が犠牲となったとされ、国家の宰相にあたる丞相(公孫賀)や、皇帝の娘2人(諸邑公主、陽石公主)も処刑されるほどでした。
そしてついには、息子である皇太子(劉拠)や既に寵愛を失っていた衛皇后らも、巫蠱を行っていたとでっち上げられました。皇太子は先手を打って江充を殺しますが、皇帝への謀反とみなされて皇太子は自殺せざるを得なくなります。後に皇后も自殺させられ、その関係者も多くが連座で処刑されます。
しかし後日、江充らによるでっち上げであることが判明し皇太子の冤罪が確定すると、今度は逆に江充の一族も処刑されるなど誰も幸せにならない事件でした。
既に老年となって疑心暗鬼が更に酷くなり、正常な判断ができなくなっていた皇帝によるやらかし、悲劇です。
そして、こういった功罪相半ばする「孝武帝」が、実はベトナムにもいました。
6. 最後は酒に溺れ重税や腐敗で国を傾けた孝武帝
17~18世紀、ベトナム中南部を支配下においていたのが広南国、その第8代目が孝武帝(在位:1738~1765)となります。
最初に言っておくと彼は生前、皇帝を名乗ったことはありませんし、「王」と名乗るのも彼の治世中(1744年)からで、それまでは「公」でした。よって最初の諡号から言うと彼は「孝武王」になります。漢王朝と同じく広南国王にも諡号の多くに”孝”ついているので、孝を取って単に武王とも呼ばれます。
ではなぜ孝武帝かというと、彼の孫にあたる人物がグエン朝の初代皇帝である嘉隆帝であり、即位後に自分の祖先に対して新たに皇帝位の諡号を送っている(追諡された)からです。これは、グエン朝時代の歴史書「大南寔録」(だいなんじつろく)にもちゃんと書かれています。
中国の唐王朝以後、諡号にはやたら修飾語が付いて非常に長くなり、ベトナムでもその影響を受けいるので長いですが、ちゃんと最後は「孝武皇帝」ですのでチーム「孝武帝」の一員です(笑)
さて以前取り上げた1750年にフランス人Pierre Poivreが見て記録に残した「虎と象との戦いを観戦していた君主、阮氏」とは、実は彼「孝武帝」のことになります。詳しくはこちら
彼の業績ですが「武」が付いている通り武力による覇業を成し遂げた人物でした。具体的には、カンボジアへと何度も侵攻したり、カンボジア王位の継承に軍事力をもって介入し領土を割譲させます。
これにより元々はカンボジア領であったメコンデルタ付近がベトナムの領土となり、現在の国境線への繋がっていたことから、国土を広げた人物として現代のベトナムでも高評価を受けています。
また文化面でもベトナムの伝統的な衣装である、アオザイの原型を定めたとされます。(正式に固まってくるのはグエン朝2代目、ミンマン帝の時)
さてグエン朝は孝武帝の孫にあたる人物が開いた最後の王朝であったため、当然のことながら”現グエン朝にとっても都合の悪い、先祖のやらかし”については、当時の公式歴史書には書かれていません。しかし色々調べてみると、彼の負の部分も見えてきます。
まず何度もの対外遠征には、莫大な費用が掛かりそれは民衆に重税という形でのしかかります。そして孝武帝のやらかしの1つが、治世の最後に張福巒(ちょうふくらん、Trương Phúc Loan)という人物を重用したことでした。後に権勢をふるったことから、南宋の秦檜※にちなんで”張秦檜”と言われるほど嫌われた人物です。
※南宋時代の政治家で言論弾圧や人事の専横、でっち上げで将軍の岳飛を殺したことから後世、姦臣や売国奴として評価が悪い人物
張福巒は私腹を肥やすため国家財産を横領し、国全体に腐敗が蔓延していく中、孝武帝は勧められるままに酒と女へ溺れていきました。なお特に寵愛したのが従姉妹にあたる阮福玉球(Nguyễn Phúc Ngọc Cầu)と言われています。
結果的にこういった圧政が原因で、1765年の孝武帝の死から6年後の1771年には、グエンフエらによる西山党の乱が起こり(当初の名目は、君側の奸である張福巒の排除)、これによって1777年に広南国はいったん滅亡することになります。グエンフエについてはこちらをご覧ください。
広南国が滅亡につながる原因を作ったことから、彼もまた功罪相半ばする「孝武帝」であったといえるのではないでしょうか。
以上、中国とベトナムに存在した5人の「孝武帝」を取り上げてみましたが、いかがでしたでしょうか?
諡号は、同じ一族の人たちが後からつけることが多いため、身内には甘い基準で美諡が使われていることがわかります。よって皇帝の名前だけで、どんな皇帝であったのかを判断することはできないというのが、今回の学びでした。
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7. まだまだある歴史秘話を紹介中
中国の暗君についてはこちら
ベトナムの暗君についてはこちら
ベトナムの孝武帝が亡くなり29年後にホーチミンを訪れた日本人たち
名前についてはこんなことも書いています。
8. ベトナムの孝武帝について参考としたページ
Trang Gia phả Nguyễn Phước tộc(ベトナム語)
Nguyễn Phúc Khoát (1714-1765) vị chúa Nguyễn đầu tiên xưng Vương(ベトナム語)
Ai khiến Vũ Vương Nguyễn Phúc Khoát loạn luân?(ベトナム語)
LẬT ĐỔ CHÚA NGUYỄN(ベトナム語)
なお前回書いた通り歴史書は、後の世になってから勝者が作るためその時の統治者にとって都合が良い様に、実際以上に悪く書かれている可能性もあります。しかし、そうであったとしても南朝宋はね・・・(苦笑)
あと、あの南朝宋の孝武帝へ「倭の五王」のうち1~2人(済?、興)は朝貢しており、安東将軍倭国王の称号をありがたくもらっています。当時、孝武帝に会った日本人がいたわけですが彼らは、孝武帝をどういう風に見ていたのでしょうかね?
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