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引用#12

W・Gゼーバルト『アウステルリッツ』(鈴木仁子訳、2012年、白水社) 一度、とアウステルリッツは言い添えた、建築物を大きさの順に並べたリストを作ってみるといい、この国の建物でふつう以下の大きさのもの——たとえば野中の小屋、庵、水門わきの番小屋、望楼、庭にある子ども用の小家——がいずれも少なくとも平和のはしくれ程度は感じさせてくれるのに、ひるがえってかつて絞首台が置かれていた通称首吊り丘、あそこに立つブリュッセル裁判所のような巨大建築物について、これを好きだという人は、まと

    • 引用#11

      エクリチュールとは、一言でいえば、以前からの文化との関連で決定づけられる一種の戦略的空間であり、太古からの父性的な言語の傾斜に沿ったある急激な滑降である。(6) ロラン・バルト「アルトー:エクリチュール/フィギュール」『ロラン・バルト著作集8 断章としての身体 1971ー1974』

      • 引用#10

        はたしてバルトに主体があるのだろうか。ある、ただし、それは誰にもおそらく彼自身にも見えなかった。だから、その主体は『彼自身によるロラン・バルト』では三人称化しているわけです。(45) 表象と表象せざるものというという図式は絶えず思考を保証するするかにみえて、実は思考を眠らせている。(中略)ところが、それとは違う思考が絶えず生起していて、誰もがそれに素足をさらしていたはずなのに、素足をさらしているという現場を一度括弧に括らないと真の自分が見出せないと誰もが思っている。(49)

        • 引用#9

          「作品」や「作品的」提示物、「物体/物質」等が「百科事典的」という客観的な場所に一旦置かれることで、「目の前の物が体験者にとって一体何なのか?」を再吟味し浮かんだ印象を記すための「索引帳」を手にしているような気分になった。(19−20) 第55回ヴェネツィア・ヴィエンナーレにさいしての文章 自分にとってスケッチとは、光景や風景、また人物の日常的な動きに対して反射的に起きる衝動に近い。(26) 「アート」に関しては特別な思いこそあれ、具体的な計画のないままに開始した海外経

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          引用#8

          言ってみれば、恋愛についての「常套句集(トピカ)」のごときものがあって、フィギュールがひとつひとつの句(トポス)をなしている、といったところだ。…(書物とは、理想的にはひとつの共同作業であるだろう。「ここに集いし読者——恋人——に」)。(8) これらの文は、まさしくそれが中断されているからこそ、フィギュールにとっての母型なのである。情動を語り、ついで停止する。それで役目は果たされているのだ。(10) フィギュールとは連辞の外に、物語の外にあるのだ。(11) 恋愛物語(「

          引用#7

          闘うという行為そのものが、おそらくはすぐれてオイディプス的な行為なのであり、むしろ「宙吊りの危機」としてとどまりつつ、いつまでも続く苦悩の挑発者であることこそが、「ノンオイディプス的態度」なのである。(67) シュルレアリストたちはそれぞれフロイトを使い、異なった理論=物語を作り出す。(71) 鈴木雅雄『ゲラシム・ルカ——ノン=オイディプスの戦略』

          引用#6

          何かを書くこと→何でもいいから書くことという中間項を経て、ただ単に書くことへ。(239) 書物に対立する、あるいは書物にたいして範列的なーーすなわち選択の必要性を生み出すーー形式、それはアルバムである。→これは「事物の本性の上に成り立つ構造」としての書物に対立する。(311) 『失われた時を求めて』は、じっさい断章の織物ではあるけれども、そこには(音楽的な意味での)建築的構成があって、それは計画のレベルにあるのではなく、回帰の取り木法のレベルにある:つまりプルーストによっ

          引用#6

          引用#5

          言い換えれば、撮影時の実際のシャッタースピードにもかかわらず、《釣り》には時間の厚みがある。この時間の厚みはカメラ・アングルと被写体の配置によって示唆されている発見の瞬間性と対象を成している。(27)         福原信三《巴里とセイヌ、釣り》1913年 だが、現実世界において通常動いている状態で目にしている対象を写真の画面に含めることで、その対象の動きを、さらには、その対象が存在する世界自体の動きを示唆することができる。(75) 複数のショットを組み合わせて作られ

          引用#4

          一方、メルロ=ポンティはそれを不透明な表面と性格づけており、その表面が私たちにイマージュを見させることを可能にすると書いています。そのイマージュのなかで、真実が本質的な「曖昧さ」となって現れるのです。(15) 『イマージュの肉ーー絵画と映画のあいだのメルロ=ポンティ』(西村和泉訳、2017年、水声社)

          引用#3

          いま言葉は自分たちの領地へ、無言へともどってゆくところである。やがて二度と出てこようとしなくなるだろう。無から現われ、無に帰ってゆくのだ。狂気の世界、ぶつかりあう語の不潔な下水渠、人間の口をへしまげる音節、出口のない饒舌。それらはなんのためにあるのだろう。まったく、なんのためにあるのだろう。かじりつくためにだ。触手をのばし、だれともしれぬ見知らぬ人間の魂のなかにしのびこむためにだ。人間の言葉こそ呪われるべきだ。言葉さえなければ、また数世紀間人間が言葉に欺かれなかったら、人生は

          引用#2

          私たちは何かを理解しようとするとき、わけのわからぬものを説明しようとする子供のように、その「何か」の比喩を探しているのだ(68−69) これらの具体的な比喩は、私たちを取り巻く世界を知覚し、理解する力を著しく増強し、文字どおり新たな事物を生み出す。実際、言語は知覚器官であり、たんなる伝達手段にはとどまらない。(65) ジュリアン・ジェインズ『神々の沈黙 ー意識の誕生と文明の興亡』(柴田裕之訳、紀伊国屋書店、2005年)

          恩地孝四郎ノート1

          この作家を知ったのはつい最近で、<叙情><リリック><ポエム>シリーズのうちの何点かを(写真で)見て、非常に心惹かれた。桑原規子の『恩地孝四郎研究 版画のモダニズム』(せりか書房、2012年)を読み彼の生涯と他の多くの作品を見てさらにここと惹かれた。 前掲書は非常に長い書籍ですべてを飲み込めたわけではないけれど、どこかにまとめて書いておきたいと思ったのでいまパソコンを叩いている。わざわざノートの作成をしておこうと思うほど、私は恩地の作に惹かれているのだ。定期的に調査報告をし

          恩地孝四郎ノート1

          引用#1 花田清輝

          記憶の底から”Poele”という言葉がよみがえってくる。(…)それが暖炉を意味するにせよ、暖室を意味するにせよ、そこでいま私の問題にしたいのは、思索自らが己の存在をたのしむためには、ともあれ、なんらかの意味におけるポアールを必要としているのではないかということ——身をきるような外界のつめたい空気の侵入をさまたげる或る種のからくりを、つねに不可欠のものとして要求しているのではないかということだ。(188)『復興期の精神』(講談社文芸文庫、2008年) 『復興期の精神』が書かれ

          引用#1 花田清輝

          コルビジェとの対話

          今日は、コルビジェ先生の授業である。しかし、困ったことに今週の範囲の教科書を読んでいない。昨日のゆうがた、友だちと公園でサッカーをしていたら、その休憩中にミノムシの巣をみつけて、ずっと何時間も何時間も眺めていたんだ。帰ってからもその巣のことが気になって、教科書なんてパラパラとめくってみることしかできなかった。 講義が終わると、コルビジェ先生が話しかけてきた。 「きみ、授業中、そっぽを向いていたね」 「はい、すみません。ミノムシの巣のことを考えていて、彼らはどうしてあんな

          コルビジェとの対話

          引用録 『文字渦』 円城塔

          『文字渦』円城塔(新潮社、2018年)  本は、作って読むものだ、というのが境部さんの持論であり「さもなくばただのデータだ」という。すなわち、境部さんにいわせるならば、テキストデータそれ自体は本ではない。どう実体化させるかによって文章の性質は変わるといい、内容が変わることだって珍しくはない。(86)  わたしは境部氏のこの見解に全面的に賛同する。昨今ようやく世間に定着してきた感のある電子書籍。電子書籍と紙書籍、書かれている文字列は全く同じであったとしても、内容は異なってい

          引用録 『文字渦』 円城塔

          『音楽が本になるとき 聴くこと・読むこと・語らうこと』 木村元(木立の文庫、2020年)

          本の蜜にあつまる本の虫たちにとって、全員が共通して好む蜜というのがある。それは本について書かれた本だ。本の虫たちは自らの好物(つまり本)について、その手触り、匂い、装丁をもっと知りたいと思う。そして同時に好物を食べるときにどんな化学反応が起こっているのか、はたまた、本の生息地、他の個体との関係性、つまりは本の生態系を知りたがる。 本書は、そんな本虫(ほんちゅう)の一人であり、本虫でありながら、音虫(おんちゅう)でもある木村元(読むまで知らなかったが、なんと精神科医木村敏のご

          『音楽が本になるとき 聴くこと・読むこと・語らうこと』 木村元(木立の文庫、2020年)