引用#10

はたしてバルトに主体があるのだろうか。ある、ただし、それは誰にもおそらく彼自身にも見えなかった。だから、その主体は『彼自身によるロラン・バルト』では三人称化しているわけです。(45)

表象と表象せざるものというという図式は絶えず思考を保証するするかにみえて、実は思考を眠らせている。(中略)ところが、それとは違う思考が絶えず生起していて、誰もがそれに素足をさらしていたはずなのに、素足をさらしているという現場を一度括弧に括らないと真の自分が見出せないと誰もが思っている。(49)

手と指という肉体の一部ももとより機械の一部に他ならないと思っていますから、そこに本質的な違いなどあろうはずもありません。かりに何らかの違いがあるとするなら、それは機械と肉体のそれではなく、mediaの性格によるものにほかなりません。(62)

批評ってやっぱり時代意識だと思う。「時代意識」というのは、単に歴史的にある時期資料によって再構築するとか、そういうことではなくて、いまがどういう時代なのかを考えることです。(87)

映画なんてどう観たって、本来正気で観られるわけがないでしょう?(91)

すべては、複製が生成される過程で起こったのであり、それを可能にするものこそ、複製技術的な空間にふさわしい無責任性にほかならない。(154)

「無知」と「徹底した知識」との間の非常に危うい均衡の上に生きていかなければならない(192)

過去の清算からしか変化は期待できないという考え。変化を阻害するものたちの排除。特権集団としての「前衛」への過度の期待。

(227−228、人間の思考を硬直化させる負の遺産)

「地球の終焉」をもたらすものは、事態の単純化そのものにほかならない。(241)

おそらく、人類は、ある概念が「問題」として広く共有されたとたんに、その何かについてものを考えるのをやめてしまうものなのです。(243)

蓮實重彦『言葉はどこからやってくるのか』青土社、2020年)

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