引用録 『文字渦』 円城塔

『文字渦』円城塔(新潮社、2018年)

 本は、作って読むものだ、というのが境部さんの持論であり「さもなくばただのデータだ」という。すなわち、境部さんにいわせるならば、テキストデータそれ自体は本ではない。どう実体化させるかによって文章の性質は変わるといい、内容が変わることだって珍しくはない。(86)

 わたしは境部氏のこの見解に全面的に賛同する。昨今ようやく世間に定着してきた感のある電子書籍。電子書籍と紙書籍、書かれている文字列は全く同じであったとしても、内容は異なっている。純粋に読後感を比べることは原理的に不可能だが、映画を見るときに、映画館で見るのと家で見るのとがまったく異なった経験であるように、電子書籍の読書と紙読書の経験は完全に異なった経験である。やや飛躍すれば、内容は受け手次第であるとさえ言えるかもしれない(これは曲解が許されているということではない、あくまでも文章をしっかりと読んだうえで、さまざまな脱構築が可能となる)。

 表示される文字をいくらリアルタイムに変化させても、レイアウトを動的に生成しても、ここにある文字は死体みたいなものだ。せいぜいゾンビ文字ってところにすぎない。魂なしに動く物。文字のふりをした文字。文字の抜け殻だ。文字の本質はきっと、どこかあっちの方からやってきて、いっとき、今も文字と呼ばれているものに宿って、そうしてまたどこかへいってしまったんだろう。(104)

 逆言霊思想?

 本層学は、本の層を掘り返し、ということは、頁をめくって歴史を読み解いていく学問であり、生活時間のほとんどはフィールドワークに占められる。(137)

 本の虫たちもまた、本層学に従事していると言えるかもしれない。床に積まれた本はじっさい地層のようだ。

 経典の有り難さは限りなく、物事の細部も限りがなく、仏の力も限りない。限りはないが、表すものと表されるものの間に区別はないから、文字は仏で仏は文字で、この宇宙に遍在する仏を文字に封じて携帯することは可能だ。仏が文字に、文字が仏に瑜伽(ヨーガ)している格好である。その宇宙の中心には大日如来が座しており、平面上に整列した文字たちが、大日如来の発する光を受けて、光合成しながら生態系をなしている。(167)
 王義之は鵝を好んだ。鳴き声を好んだようだが、姿を好んだとも考えたい。あるいは歩容を、筆法にとりいれたということもあるかもしれない。(207)
 そのあたりが道理からみた、わたしの起点ということになりそうなのだが、記憶の以前、心のうちをのぞきこむなら、もっともっとはるかな以前、木々の蜜に生い茂る大樹林の中を思う様に叫びつつ自在に遊ぶ生き物だったのではないかという気がしてくる。どこまでもつづく樹海をひたすらに、ゆくてもしらぬままに跳び、やがて木は尽き、目の前におおきなひろがりがあらわれる。そこにはなにか、逆巻くつよいものがあり、いわゆるそれが海だった。おそれ気もなく丸木にまたがり、ただひたすらに涯てを目指した。何台もわたしをのりつぎながら、わたしはわたしをみつけていった。(280)

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