引用#8

言ってみれば、恋愛についての「常套句集(トピカ)」のごときものがあって、フィギュールがひとつひとつの句(トポス)をなしている、といったところだ。…(書物とは、理想的にはひとつの共同作業であるだろう。「ここに集いし読者——恋人——に」)。(8)

これらの文は、まさしくそれが中断されているからこそ、フィギュールにとっての母型なのである。情動を語り、ついで停止する。それで役目は果たされているのだ。(10)

フィギュールとは連辞の外に、物語の外にあるのだ。(11)

恋愛物語(「アヴァンチュール」)とは、恋する者が世間と和解するために支払わねばならぬ租税なのだ。(12)

たえず現前するわたしというのは、たえず不在であるあなたの前でしか成立しない。不在を語るとは、したがって、主体の場と他者の場とが交換されえないと主張することだ。(22ー23)

というのも、幻惑を記述するとは、とどのつまりが、「わたしは幻惑されている」という言表を超えることのありえぬものだからだ。言語活動の果てに至れば、言語はその最後の語を、まるで傷ついたレコードのようにくりかえすほかない。(34)

『恋愛のディスクール・断章』ロラン・バルト(三好郁朗訳、みすず書房、1980年)

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