コルビジェとの対話
今日は、コルビジェ先生の授業である。しかし、困ったことに今週の範囲の教科書を読んでいない。昨日のゆうがた、友だちと公園でサッカーをしていたら、その休憩中にミノムシの巣をみつけて、ずっと何時間も何時間も眺めていたんだ。帰ってからもその巣のことが気になって、教科書なんてパラパラとめくってみることしかできなかった。
講義が終わると、コルビジェ先生が話しかけてきた。
「きみ、授業中、そっぽを向いていたね」
「はい、すみません。ミノムシの巣のことを考えていて、彼らはどうしてあんな場所に巣を作るのでしょう」
「それはわからないが、人間は機能的で幾何学的に美しい家に住まなければならない、ミノムシの巣は美しいのかね」
「ぼくにはそう見えました、しかし先生は講義のなかでこういっていましたね」
立体はわれわれの感覚がそれを通じて知覚し、測定するもので、全的に影響をうけるものだ。
面は立体を包むもので、その感覚に抑揚を与えるものだ。
平面は立体と面を生み出す生み出す源泉であり、これによってすべてを確定的に決定するものだ。(30)
「ぼくにはミノムシの巣は平面を持つようには見えず、それは枝、つまり線だけからなる気がしたのですが」
「なに、それではだめだ。幾何学という美しさを自然は忘れたはずはない。純粋な円、三角、四角、直線を求めねばならない。そして何より比例だ。
建築とは<比例>であり、それは<精神の純粋な創作物>である。(32)」
「それでは先生、ミノムシの巣は建築とは言えないのですか。人間が完全に理性を発揮し、機能とその強調によって建てられたものしか認められないのですか。ミノムシの巣は美しくないのですか。幾何学的でないばかりに」
「それはまだわからない。ミノムシの巣が敵から目を欺くという機能と、保温の目的とその利便性のための枝からなっているということも想像に難くない。しかし、それをわれわれ人間の建築に活かそうと思うのは間違っている。
<平面は原動力である。>
<平面なしには、無秩序といい加減がある。>
<平面の中に感覚の粋を蔵している。>
<明日の大課題は、集団の要求によって示され、あらためて平面の問題を提起する。>
<現代の生活は、家屋にも都市にも新しい平面を要求し期待している。>(48)
この五つを認めることなく、新たな生と建築を開始することはできない。人間の住居は平面で出来上がっているはずだ」
「でも、先生。人間はもともと平面、それも完全な平面など経験したことはなかったのではないですか。なんといっても地表は凸凹ですし。遊牧民の生活を見れば、たしかに彼らはある程度平らな場所にゲルを設置して生活しているように見えますが、壁はけっして平面ではないですし、天井もあるかないかわかりません。歴史を探せば、斜面に住んでいた人たちもいたでしょうし、壁や天井がない家に住んでいた(いる)人たちもいるでしょう。平面がすべてではない気がします。むしろ平面こそ、虚構ではないのでしょうか」
「うむ、しかし文明の利器、君も使うことがあるだろう、自動車や飛行機などは、平面とそして機能の調和によって設計され、速度の加速をもたらした。われわれは、機能とその洗練で進化したのではないか」
「それはそうかもしれません。しかし、速度はやい方が良いのでしょうか。たしかに僕らは移動に時間がかからなくなりました。しかし、速度がはやくなったことで、不幸になることもあるでしょう。事故も増えるでしょうし、何より、機械の速度というのは人間の速度、そして時間を超えてはいませんか。すこし観念的になりますが、建築の速度というものがあるとして、それは施工の速度ではありませんが、それが上昇すると、つまり、機能的に速度が極限に向かうと、人間にとって便利でも、それと同時に人間にとって不自然な家に住まねばならなくなるのではないですか」
「きみはなにをいっているのか、よくわからないね。建築の速度は加速するべきだ。建築家は家をつくり、人々の生活を変化させ、意識を変化させる。「建築か革命か」、この二択はつまり、建築が革命であるということなのだよ」
「建築が意識の変化をもたらすのはわかります。しかし、あなたの<機能とその調和、幾何学の重視>に僕はあまり賛同できません」
「おや、もうこんな時間だ。君も、虫の巣などあまり眺めず、もっと良いものを眺めなさい、ローマの建築、ルネサンスの建築。そして何より私の設計した建物たちを」
先生は走ってどこかに消えていった。僕は家に帰ると、先生の書いた『建築をめざして』という本をパラパラと眺めていた。先生は相変わらず、機能と幾何学を重視し、装飾でしかない装飾を嫌悪していた。こんな先生だからこそ、昆虫の巣を評価しそうなものだが、とも思った。しかし、たしかに魅力的なフレーズに満ちた本ではあった。たとえばこんなところ。
<情熱は生命なき木石で劇を作り上げる。>(121)
知性と情熱。芸術は感動なしにはあり得ないし、感動は情熱なしにはあり得ない。(130)
人間の目は周囲を調べるために。終始回転し、また人間も右や左へ廻り、グルグル動く。すべてに関心を持ち、そこに関係する場全体の重心に引きつけられる。(149)
パラパラ読んだだけで何がわかるというのではない。建築に詳しくない僕が言えることはすくない。たしかにコルビジェさんは、情熱的で賢い人だったのだろう。そして、それがモダニズム、マシニズムの時代にフィットし、彼の考えは、熱狂をもってある種の人々からは賛美された。ただ僕がなんとなく感じるのは、その設計と情熱には「ヒトが土地に根を張り、住みつく」という視点がかけていたのではないかという気がするのだ。機能的にしようとすればするほど、自然から、土地から離れていってしまいやしないか。モダンないしポストモダンという、人類史的に見ればほんの先っちょの、鉛筆の端っこの消しゴムみたいな時代の僕らが、ヒトの住居を定義してしまえるのだろうか。むしろ、先生みたいな考え方は、人類史的に異常ではないか、そんな気がしてしまうのだが、どうだろう。
『建築をめざして』ル・コルビジェ(吉阪隆正訳、鹿島出版界、1967年)
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