引用#1 花田清輝

記憶の底から”Poele”という言葉がよみがえってくる。(…)それが暖炉を意味するにせよ、暖室を意味するにせよ、そこでいま私の問題にしたいのは、思索自らが己の存在をたのしむためには、ともあれ、なんらかの意味におけるポアールを必要としているのではないかということ——身をきるような外界のつめたい空気の侵入をさまたげる或る種のからくりを、つねに不可欠のものとして要求しているのではないかということだ。(188)『復興期の精神』(講談社文芸文庫、2008年)


『復興期の精神』が書かれた時代のことを思い出してみれば、ここで言われている「身をきるようなつめたい空気の侵入」が何であるのかはすぐにわかるだろう。戦時下、自由な言論がままならないなかでスピノザへの批判という形をとって花田は自らの境遇を、世の境遇を嘆いているかのようである。

それはさておき花田のいうポアールを言論人たちは皆考えてみねばならないだろう。暖房がある部屋でなければ、いや、そもそもパソコンを持たなければ書くことは不可能である。これを忘れた途端に言論人の言論は空疎になり、観念的になる。ある種のプラグマティックな態度が言論には必要だし、言論には常にすでにそのような態度が伴わざるを得ない。しかしすぐさま補足せねばならない—すぐさま補足せねばならないほど、勘違いと偏狭な解釈が蔓延している—と思うのは、それが決して経済にとって、文化にとって、役に立つべきだということではない。拝金主義がはびこる世の中、ポアールの領域にそれが持ち込まれてはならない。同時にポアールの領域は、拝金主義がはびこらないような世界を目指す—ある種の道具主義を伴いながら。それが何の役に立つかわからないという研究は往往にしてある。しかし、自分のやっていることは無意味だからといって開き直る態度はいただけない。平凡極まりない結論であるが、それが何の役に立つかもまたひとつの研究であろう。ポアールの領域が拝金主義に犯されてはならない、しかし同時にそれは世のため、民のため、動物のため、植物のため、鉱物のためにあらねばならない。ある種の道具主義の再興を!


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