見出し画像

「男女」と「女女」と「男男」

無知と傲慢と偏見

最初は発想すらなかったので、初めてそのセリフを言われたときひどく驚いた。

それは2015年のことで、私が職場のある男性先輩と某チェーンカフェでお茶をした話をたまたま女の子に話したときに、「気づいていないと思うけど、男の人が2人きりでカフェでお茶してたら、周りの人からゲイって思われるよ」と言われた。

それは単なる事実報告というより、すこしからかいを含んだ物言いだった。

今の価値観からすると女の子のセリフはとても反感を買うのだろう。ただ、当時はーー少なくとも私が住んでいた地方都市ではーーまだその手の偏見がかなり色濃く残っていたように思う。

私は性自認が一致している異性愛者なので、周りからの視線と自身のセクシャリティは違ったのだけれど、陰口を陰で言われるぶんには「実害」がないと思い、女の子にそれを告げた。

女の子に言われたのは「いちぶんのいち」の話だったから、念のためその後すぐに数人の女の子に聞いてみると、みな先の女の子と同様のことを思うようだった。考える、というより、見た瞬間に一瞬そう感じるとのことだった。

やはり発想がなかった私はとても驚き、ひとまずそういう認識が存在することを知った。それからというもの行く先々でなんとなく周りの客層を見るようになった。

身近にいない「男男」

カフェでも、図書館でも、小洒落た映画祭でも、男性が2人だけで来ているケースはほとんどなかった。「男女」や「女女」の組み合わせはとても多い。それなのに「男男」だけは極端にーー本当に極端に、少なかった。特にピクニックや美術館、水族館など、いわゆるデートのイメージが強い場所で「男男」を見かけることはまったくないといっても過言ではなかった。

特別な意味を持たれがちな空間に、普段まったく見かけない「男男」がいたら単純に目が向きやすい。最初は何かを含んだ視線ではなく、シマウマの群れに一匹だけキリンがいたらキリンに目が向きやすいというシンプルで生物学的なものなのだろう。

ただ、文化由来の偏見のフィルター(それは同性愛を禁止していた宗教や法律規制の歴史、明文化されていない時代時代の社会規範など複合的なものの結果だと思う)がかかると、男男=同性愛者に安直に結びつける場合があるのかもな、と当時はそう思った。

でも実際のところ、実害がなかったからたぶん真剣には考えていなかったのだ。そして実態を伴わないそのエピソードは、時間とともにすぐ記憶の死角に吸い込まれた。吸い込まれはしたが、無意識の偏見の存在はしっかり根付いていた。私が日常的に目にしていたのは「男女」「女女」という、社会的に受け入れられやすい組み合わせばかりだった。だからこそ、数年度に起こったあの出来事によりいっそう反応したのだろう。

傲慢と考えたつもり

2015年のあの出来事からずいぶんと経ち、多様性という言葉を見聞きしない日がないほど流行りはじめたころだった。30代になった私は別の土地で男友達と2人でファストフード店で話していた。職場で心無いことばをぶつけられる機会が多いらしく参っている男友達の話を聞くために、私達はその店にいた。

ぽつりぽつりと話す彼の深刻な言葉に相槌を打っていたら、しばらくして近くの席からの視線を感じた。10代後半の少女が3人、こちらを盗み見てニヤニヤ話していた。

それは「男同士」「2人」「やばい」という言葉で、さらに時間が経つと明らかにこちらに呼びかけるような大きな声で「■■■■■」「△△」「●●●」とここには書いてはいけない卑猥な言葉たちを連呼し始めた。

実害に遭った、そう思った。普通に話していただけなのに、なぜこんなことを言われないといけないのだろうと思った。とても不快だった。

実際のセクシャリティと異なっているから憤ったわけではない。勝手にセクシャリティを決められたことでもない。このセクシャリティなら軽んじてもいいと判断され、実際に揶揄されたことが不快だったのだ。たぶん「男女」で来ていたら不快な思いをしなかっただろう。もしくは3人以上の男性同士だったら。

悩みを話していた友人も揶揄されていることを敏感に察知したようだった。私はそのファストフード店に、友人の悩みを聞くために来た。誰かに揶揄されるために来たのではない。とても悔しかった。少女たちは直接話しかけてきたわけではないが、こっちに聞こえる形で、でもあくまで少女たちの中だけで会話をしている体のやりかたが、本当に不快だった。

強い憤りを感じた私が「店員さんに注意してもらおうか」と言うと、友人は疲れた表情で「大丈夫、でももう外に出よう」と言った。

たしかに、ただでさえ疲れているときに不毛なトラブルになりそうなことは避けたほうが良いかもしれない。そう思い2人で店の外へ出た。店を出る直前まで、少女たちはこちらに向けて卑猥な言葉を投げ続けていた。2015年に聞いた偏見の知識を、身体的なレベルで経験したと思った。

あのときの正解

店を出て、しばらく話し、私達は別れた。家までの帰り道、私はあのときどうすればよかったのかを考え続けた。しかしいっこうに正解がわからなかった。

だってなんて言えば良い?

仮に、30代の男性である私に「10代の女の子達から卑猥な言葉を投げつけられて不快なので注意しれくれませんか?」と言われた店員は、はたして私の思いを邪念なくストレートに受け止めてくれるだろうか。その店はファストフード店で、二十歳前後の女性店員が多かった。私がお願いしても、むしろ私自身がヤバい人と思われるかもしれない。

「卑猥な言葉」にしたって、もし実際に何て言われたのですかと聞かれたときに、まさか「■■■」だの「△△」だのと固有名詞は言えない。男性の店員を見つけて注意してくれと言っても、ストレートに受け取ってもらえたかはわからない。やはりこちらは一般的に強者である30代の男性で、相手はまだ10代の少女たちなのだ。子どものすることとあしらわれる可能性だってある。

けれど、本当に、不必要に不当な扱いを受けたのだ。おそらくはセクシャリティへの偏見が理由で。

正解のあった問い

答えが出ないまま歩き、家に帰り着くころ、たまたま女友達から遊ぼうという電話があった。私は先ほど起こった、全く消化できていない出来事を「正解のない話」として彼女にした。しばらく彼女とその出来事について話したかったのだ。

けれども彼女は軽やかな口調で、「そういうときは店員さんに『近くの席の学生が騒がしいので注意してくれませんか』とひと声かけて店を出たら良いのよ」と言った。こともなげに発せられたその言葉は、なぜか強いリアリティを含んでいた。

私のとまどいに気づいたように、彼女は「女性が2人でお店にいると、男の人からたまに似たようなことがあるのよ」と続けた。同性愛かどうかではなく、ただ単に女性が2人だというだけで軽んじていいと判断される場合があるのだと。

「それで今日は遊べるの?」

彼女の言葉を聞きながら、結局のところ私は昔も今も、たいして物事を深く考えていないのだなと感じた。自分が体験したこと/目に見えていることばかりに気を取られて、意識の外にあるものを自ら掴みに行こうとは全くしていなかった。

考えている気になっているつもりの人間だと思った。傲慢だったと思った。私が30年ちょっと生きて初めて体験したことを、彼女は、もっというと彼女たちはずっと昔から経験してきたかもしれないのだ。その可能性を、全く考えていなかった。

もっとマシな人間になりたいと思った。

見えていないものを知るために、私が導けなかった自分なりの答えを持っている彼女のもとに、私が経験したことを人生のより早い段階で経験した彼女のもとに、もしかしたら別の何かを経験したかもしれない誰かのもとに自分から行こうと思った。

うまく言葉にできないのだけれど、それがスタートだと思った。

ーーそれから彼女に会った。私の強い決意など知る由もない彼女は「カラオケに行こう」と言い、「マツケンサンバII」を熱唱していた。彼女は素敵だった。みなに幸あれ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?