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「16歳の時、僕は死のうと思っていました」

映画好きの方にはうなずいてもらえるかもしれませんが、私にはこの時期になると落ち着かない理由があります。
世界最大の映画の祭典、アカデミー賞授与式が、もうすぐ開催されるためです。

そもそも芸術に賞を与えるのは正しいことか、ただの政治だ、金のかかったゲームに過ぎない、などなど、少なからず議論を呼んでいるのは承知です。

俳優部門が白人に独占されたことを発端とする「白すぎるオスカー」批判、人種差別に留まらず、性別・身体的・性的マイノリティーに対する差別と偏見。
この世界の暗部を反映したかのような問題と、それらの解決、多様性の実現という課題を突きつけられてもいます。


けれど、だからといってこの祭典が無くなるのは寂しすぎます。
時に弊害を生むことがあったとしても、やはりそこは夢と地続きであり、多くの人にとっての憧れや、非日常の世界そのものです。

毎年、決まって予想外の事態が起こり、時に卓越した脚本家にも描ききれないような、心惹かれるドラマを見せてもくれます。
奇跡の逆転劇があり、予定調和の勝利があり、不満が、戸惑いが、爆発するような歓喜の場面が展開します。

賞の発表自体が楽しみなのは言わずもがなで、そのほかに私が大好きなのが、受賞者たちによるスピーチです。
一体、誰がどんなことを話すのか。そこに並々ならぬ興味が湧いてきます。


「I’d like to thank ~(~に感謝します)」の決まり文句でひたすらにお礼を述べる人が多いのは、ややうがった見方をすれば、スピーチを無難に終わらせたいためでしょう。

“自由の国”アメリカでも、俳優が公の場で社会的なメッセージを唱えることは、大きなリスクを伴います。
そういった話題に触れるとすれば、後の仕事に響くなど、目に見えないペナルティは避けられません。

逆に言えば、だからこそあえて社会問題への提言や、世界の不平等を訴えるような勇気あるスピーチに、何度心の底から感動したかしれません。


そして、それらとは少しテーマが異なるものの、私が最も感動し、今でも忘れられないスピーチがあります。

その人は俳優ではなく、脚本賞の受賞者でした。
年の頃はおそらく30代半ば、まだ青年ともいえるような、初々しさと繊細さを感じさせる男性です。

受賞の嬉しさと感謝の言葉を述べてから、その人は唐突にこんな言葉を口にしました。

16歳の時、僕は死のうと思っていました

会場中が静まり返り、息を呑んだのは当然です。こんな場で死の話など、誰が持ち出そうとするでしょう。
けれど彼はオスカー像を手に、淡々とした口調で続けました。

どこにも居場所がなかったからです。だから、毎日死ぬことばかりを考えていました。
でも、あるとき思ったんです。このまま死んだら僕は何も楽しいことを知らないままだ、それはすごくつまらない。ここよりいい所が、どこかにあるんじゃないかって。
だから、もう少しだけ生きてみようと思ったんです。
そして、今、僕はここにいる。ここが僕の居場所です。僕は居場所を見つけたんです

彼が会場をぐるりと見回しながら微笑むと、大歓声と拍手が起こりました。
それが収まり、また静寂が戻るのを待って、彼は静かに続けます。

だから、もしあの時の僕と同じように辛い気持ちで、死ぬことを考えている人がいたとしたら、もう少しだけ生きてみてほしい。
あなたの居場所はきっとあります。僕のように、あなただって自分のいるべきところを見つけられる。
そして、あなたがちゃんと居場所を見つけて、無事に生き延びることができたなら、今度はあなたが誰かに伝えてほしい。あなたの居場所はちゃんとあるから、大丈夫だよって。
僕の言いたいことはそれだけです。
聞いてくれてどうもありがとう

会場は再び轟くような拍手に包まれ、涙をこぼしている人もいました。
私にとって、彼こそがその夜の主役であり、ステージの上の彼は、仲間たちに囲まれ、満ち足りた様子の笑顔でした。


私がどうしようもない悩みで深く落ち込んでいた頃、彼のこのスピーチを聞けたなら、どれほど慰められたかと思います。
他にもきっと、彼の言葉を必要としている人はいるでしょう。

もう何年も前の授与式でのスピーチであり、この人のお名前がわからないのは残念でなりません。
どの映画に関わっていたかも思い出せず、出来うる限り調べてみても、結局は何もわからず終いです。
ただ、たった一度聞いたきりのスピーチだけが、色褪せず私の頭の中に残っています。

今年のアカデミー授与式は3月12日。
またどんな名場面が見られるでしょうか。

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