広瀬尚子

1935年3月東京生まれ。 女子学院中学・高校、青山学院女子短期大学英文科卒。 著書「…

広瀬尚子

1935年3月東京生まれ。 女子学院中学・高校、青山学院女子短期大学英文科卒。 著書「やすらぎの森~北軽井沢からのカウンセリングメッセージ」(文芸社)「わたし84歳、今がいちばん幸せです!」(KKロングセラーズ)「”本当の自分”は宇宙とつながっている」(GaraxyBooks)

最近の記事

86歳が綴る戦中と戦後(21)終戦後の銀座

前にも書いたように中野の家が空襲で焼失してからの私の家は鉄砲洲という隅田川の河口に近い町。家の横の通りを南へ真っ直ぐ1キロ歩いた所が銀座1丁目の交差点でした。 そこの角には「テアトル銀座」という映画館があり、復員して来た父と母の3人でそこへよく映画を観に行きました。当時の映画館はどこも入れ替え無し。現在のように時間を調べて最初から観るのではなく、いつでも入れましたから上映中の途中から観て、終わったらそこまでを初めから見直すというのが普通でした。 いつも館内は超満員で立ち通

    • 86歳が綴る戦中と戦後(20)映画と音楽

      戦後アメリカから入って来たものはガムとチョコレートだけではなく、文化もどっと入って来ました。前回書いた「ブロンディ」もその一つですが、いちばん心をガツンとつかまれたのが当時全盛期だったハリウッド映画の数々、そして陽気なアメリカンミュージック。 いわゆるフィフティーズと呼ばれるジャズやポピュラーソングの数々は英語に興味を持ち始めたばかりの私の心をガッチリとつかんでしまいました。 ラジオから流れる進駐軍向けのWVTRという局から放送される音楽はどれも魅力的でした。すでにレコー

      • 86歳が綴る戦中と戦後(19)漫画「ブロンディ」

        戦後急に英語やアメリカ兵やアメリカのチョコレート、チューインガムなどが入って来て、それまで「鬼畜米英」と教育されてきた私にとってはあまりにも大きな変化でしたが、中でもいちばんのカルチャーショックは終戦の翌年から週刊朝日で連載が始まったアメリカの漫画「ブロンディ」でした。 金髪美人のブロンディが主人公で旦那さんはダグウッド。 冷蔵庫から出したハムなどで何層にも積み上げた「ダグウッドサンドイッチ」を長椅子に寝そべりながら頬張る姿。 そのそばでブロンディは身体にピッタリのタイトス

        • 86歳が綴る戦中と戦後(18)転校

          前回で書いた若い英語の先生の教え方は画期的で、単語の意味を教えるのに日本語は使わず動作で示したり、教科書にはないブラウニングの詩を教えてくれたり、放課後英語に興味のある生徒たちを集めて「英語クラブ」というのを作って英語のジョークを教えてくれたり、英語劇をしたりしました。 そのどれもがとても楽しくて私は英語がどんどん好きになって行きました。しかしおじいさんの校長にはそのやり方が気に入らず、先生は1年で辞めてしまったのです。 先生は辞められる直前何人かの女子生徒の家を訪問され

        86歳が綴る戦中と戦後(21)終戦後の銀座

          86歳が綴る戦中と戦後(16)中学生になる

          何とか肺炎から回復した私は6年生の2学期からまた学校へ通いだしました。 そろそろ進学のことを考える時期になり、その頃普通に女の子が行く女学校を2,3思い浮かべて受験するつもりでいました。 当時は女子は女学校、男子は中学校と決まっていて共に5年制でした。 すると多分年末頃だったと思いますが、急に制度が6・3・3制になり、翌年の4月からは小学校6年、男女共学の中学校が3年、高等学校が3年と変わることになりました。 中学までが義務教育となって授業料は無料、入学試験なしで行かれるこ

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          86歳が綴る戦中と戦後(15)焼け跡の強盗

          復員してきた父はしばらく休んだ後、さっそく就職活動を始めたようです。 戦地で支給された給料を貯めて靴下の中に隠し、苦労して持ち帰って来てくれたのですが、その前に新円への切り替えというのがあって、以前の紙幣は紙くず同然になっていたのです。 そしてある日、友人が社長をしている中野の出版社に部長待遇で勤めることになりました。 当時まだバスも都電も復活していません。 最寄り駅は東京駅。隣町の八丁堀から東京駅までが一面の焼け野原でした。 父は毎日東京駅まで30分歩いて通勤していま

          86歳が綴る戦中と戦後(15)焼け跡の強盗

          86歳が綴る戦中と戦後(14)父の復員

          1年生で入学した時から戦争で転校続き、空襲で落ち着かなかった学校生活がようやく平常に戻り、私は6年生になりました。 その頃の毎日の暮らしの中での一番の関心事は父の消息です。 どこにいるのか、生きているのか戦死したのか全くわかりません。 何もするにもそのことが頭から離れないので、例えば道路を横断するときなども「何歩で向こうへ渡れたらお父さんは帰って来る」「次の角を曲がって最初に会うのが男の人だったらお父さんは帰って来る」などと勝手なジンクスを作ったりしていました。 それが当た

          86歳が綴る戦中と戦後(14)父の復員

          86歳が綴る戦中と戦後(13)東京へ戻る

          東京へ戻ることにはなりましたが家は焼けてしまってありません。 借家で土地も借地でしたから元の所へ戻ることは出来ません。 当時はよほどのお金持ちでなければ自分の土地に自分の家を持っている人はいなくて、借家が普通でした。 でもその焼けた借地にいち早く焼けトタンや古材でバラックを建てて住んだ人はそのままそこに居座ってしまい、結局持ち主が消息不明だったり戦後の混乱の中で境界線や所有権などもうやむやになって、いつの間にか他人の土地を自分のものにしてしまった例も多くあったようです。

          86歳が綴る戦中と戦後(13)東京へ戻る

          86歳が綴る戦中と戦後(12)進駐軍

          東京の皇居のお堀に面した第一生命ビルにGHQが出来て総司令官のマッカーサー元帥がやって来たのは終戦の日の2週間後。そのために「見苦しい浮浪児たちを町中から追い払え」との政府からの命令で親を空襲で失った孤児たちが山へ捨てられた話は前に書きました。 あちこちに進駐軍の基地が出来て続々とGIたちが進駐して来ました。 高崎にも進駐軍がやって来るというのでみな緊張しました。 何しろ「鬼畜米英」と教えられていた相手です。どんな恐ろしい野獣が来るかと町中が戦々恐々としていました。 誰もま

          86歳が綴る戦中と戦後(12)進駐軍

          86歳が綴る戦中と戦後(11)手荷物預かり所

          1945年8月15日。 ようやく戦争が終わりました。というより負けました。 「終戦記念日」なんてソフトな言い方をしてますが、「完敗記念日」です。 無条件降伏というのですから、相手からどうされても文句が言えない最悪な負け方です。 前途有望な大勢の若者たちを無駄死にさせ、何百万と言う国民の命を犠牲にする前に和平交渉に応じる方法もあったと思いますが、何せ国民を大事にしないのが今に続く日本と言う国の伝統です。 上に立つ人たちにとって大事なのは自分の命と立場だけ。国民などどうなっても

          86歳が綴る戦中と戦後(11)手荷物預かり所

          86歳が綴る戦中と戦後(10)無条件降伏

          空襲から一夜明けて眼が覚めると、表通りを人々があわただしく走って行きます。 うちにはラジオも新聞もないので、何が何だか分からずみんなの後を追って行くとあるお店の前に人だかりがしています。 店の前で大人たちはみんな頭を垂れており、何やらボソボソした声がラジオから流れていました。何を言っているのかさっぱりわからないので家へ帰って来ると、あの滝野川のおじさんが飛び込んで来ました。 「ナオコちゃーん!戦争が終わったよー!」 「戦争が?終わったの?!」 「そうだよ!お父さんが帰

          86歳が綴る戦中と戦後(10)無条件降伏

          86歳が綴る戦中と戦後(9)新型爆弾

          父の友人Sさんの家は高崎駅前の大通りに面していて、駅のアナウンスが聞こえるほどの近さにありました。 間口2間のガラス戸を開けると8畳くらいの広さのコンクリートの土間があり、その先が6畳の部屋、突き当りが台所とトイレ。(トイレなんて戦後の言葉。当時は便所といい、当然汲み取り式です。水洗式なんて当時どこにもありません。 6畳間から階段を上がると2階に和室が二つありました。 ほとんど着の身着のまま、焼け出されたままの姿でお金もなく、母はどうやって暮らしを立てていたのかわかりません

          86歳が綴る戦中と戦後(9)新型爆弾

          86歳が綴る戦中と戦後(8)焼け跡

          後になって知ったのですが、この5月24日深夜からの空襲で中央線の沿線で言えば四ツ谷から信濃町、新宿、東中野、中野、高円寺までが全部焼け野原になったそうです。 翌日の25日にも空襲があり、その時は東京駅と日本橋、神田が全部焼けました。 有楽町、銀座が焼けたのも同じ日だったのではないでしょうか。それとも別の日だったか定かではありません。 テキは全てを知っていて、戦後GHQ(General Headquaters・連合国最高司令官総司令部)の入るビルにしようと皇居のお堀に面した第

          86歳が綴る戦中と戦後(8)焼け跡

          86歳が綴る戦中と戦後(7)空襲

          出征しした父から一度だけ葉書が来ました。 どうやら北支(中国北部)へ行くようなことが書いてありました。 父の部隊の半分が北支、半分が南方の島へ行ったことはずっと後になってから知りました。 南方へ行った人のいったい何人が生きて帰って来たでしょうか。 (父は2年後に復員して帰って来ましたが、かなり身体が弱っていて、坊主頭の髪が伸びてきたら真っ白になっていました。) 東京は3月10日の大空襲の後4月13日にも大きな空襲があり、現在の大田区に住んでいた父の2番目の弟である叔父夫婦

          86歳が綴る戦中と戦後(7)空襲

          86歳が綴る戦中と戦後(6)父の応召

          福島県での学童疎開を3か月で中断して東京へ戻って来たのは年末だったか、それとも年が明けてからだったか、とにかく冬の時期でした。 久しぶりの親子3人の暮らしに戻って間もなく、父に召集令状が来ました。 令状には赤い紙が使われていたので俗に言う「赤紙が来た」のです。 その時父は39歳。もう老兵と言われる年齢です。 初めは免除になっていた大学生まで、それも芸術系の大学の学生まで駆り出されて、もう日本には若者は残っていなかったのです。 当日父はカーキ色の国民服に戦闘帽、足にはゲ

          86歳が綴る戦中と戦後(6)父の応召

          86歳が綴る戦中と戦後(5)捨てられた孤児たち

          疎開して間もなく、旅館の下を流れる川の上流へ遠足に行き、そこでみんなで川に入って泳ぎました。その時に耳に水が入ったらしく私は中耳炎になってしまいました。 すぐに町の耳鼻科に連れて行ってもらったのですが、予後があまりよくありません。 耳の中が化膿して膿が流れ出てくるのです。 同じ部屋の子たちから臭いと言われ、自分ではどうすることも出来ず東京の両親に手紙を書きました。 母は東京の医者に診せたいから連れ帰りたいと校長に申し出たのですが、これは国の政策だから勝手は許されないと却下さ

          86歳が綴る戦中と戦後(5)捨てられた孤児たち