86歳が綴る戦中と戦後(6)父の応召

福島県での学童疎開を3か月で中断して東京へ戻って来たのは年末だったか、それとも年が明けてからだったか、とにかく冬の時期でした。

久しぶりの親子3人の暮らしに戻って間もなく、父に召集令状が来ました。
令状には赤い紙が使われていたので俗に言う「赤紙が来た」のです。

その時父は39歳。もう老兵と言われる年齢です。

初めは免除になっていた大学生まで、それも芸術系の大学の学生まで駆り出されて、もう日本には若者は残っていなかったのです。

当日父はカーキ色の国民服に戦闘帽、足にはゲートルを巻いて名前を書いたたすきをかけ、日の丸の小旗を振る近所の人たちのバンザイの声に送られて出発して行きました。

母と二人になり、寂しい夜を迎えていると、遅くなって父が帰って来たのです。
何が原因だったのかわかりませんが、「即日帰郷」となったのでした。

私は嬉しくて嬉しくて跳びまわっていましたが、母は複雑です。
朝あんなに賑やかに送り出されたのにご近所に合わせる顔がないというのです。
しかし本当は嬉しかったに違いありません。

しばらく平穏な日々が続きましたが、警戒警報や空襲警報は度々発令され、相変わらずの灯火管制に防空演習は毎日のようでした。

しかし喜んだのも束の間、再び父に赤紙が来ました。

今度は直接山梨県の甲府の連隊へ行くことになり、前の晩に親子3人で甲府へ向かいました。
しかし同じような人たちで甲府の町の旅館はどこも満室。
ようやく窓のない小さな布団部屋でよければということで、そこに泊まりました。

翌日、父が入って行った連隊の金網の外には「即日帰郷」を願って待つ家族たちが大勢いました。
私と母も同じです。2回目はないだろうとは思いつつも一縷の望みをかけて夕方まで頑張りました。

待ちくたびれた頃、国民服にゲートル姿の兵士たちが隊列を組んで行進して来ました。
足元は革靴ではなく皆地下足袋です。

もうその頃軍服も軍靴もなかったのでしょう。
その隊列の中に父を見つけた途端、母はしゃがみ込んで泣き出しました。
私も泣きました。

二人で無言のまま、電車に乗り我が家へと帰る途中のあちこちの駅で異様な人々を見かけました。すすで真っ黒になった顔、焼け焦げた防空頭巾や衣服の人たちです。

そう、その日は1945年3月11日。あの東京下町の大空襲があった翌日だったのです。「東京大空襲」と言われるあの日の空襲で10万人が亡くなったと聞いています。


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