86歳が綴る戦中と戦後(15)焼け跡の強盗

復員してきた父はしばらく休んだ後、さっそく就職活動を始めたようです。

戦地で支給された給料を貯めて靴下の中に隠し、苦労して持ち帰って来てくれたのですが、その前に新円への切り替えというのがあって、以前の紙幣は紙くず同然になっていたのです。


そしてある日、友人が社長をしている中野の出版社に部長待遇で勤めることになりました。

当時まだバスも都電も復活していません。
最寄り駅は東京駅。隣町の八丁堀から東京駅までが一面の焼け野原でした。
父は毎日東京駅まで30分歩いて通勤していました。

丁度その頃何かの予防注射を受けた私は翌日から高熱を発し、息が苦しくて咳が出ます。
その咳がいつもの風邪とはちょっと違うことに気付きました。
何年か前に母が肺炎にかかって死にかけたことがありますが、その時の咳に似ているのです。
それでいつの頃からか同居するようになっていた父方の祖母にそれを伝えました。

「おばあちゃん、ヘンな咳が出る。肺炎かもしれない」と。

祖母はすぐに粉のカラシを茶碗に入れてお湯で練り、布に伸ばして私の胸に貼ってくれました。この祖母は昔助産婦で、私もこの祖母に取り上げてもらったそうなのですが、多少の医学的知識もあったのでしょう。翌日往診に来たお医者さんにほめられました。
初期の手当てがよかったので命拾いしましたね、と。

本来なら入院なのでしょうが終戦直後のことで病院はいっぱい。
家で1か月安静にしていることになりました。
学校では丁度ローマ字の勉強が始まったばかりで、日本語でない文字で文章が読み書きできることが面白くてならなかった私は寝たきりのまま、父が買って来てくれる「小学生新聞」に載っているローマ字の欄で勉強しました。
これが私が英語に興味を持った第一歩だったのです。

そんなある日のこと、父は通勤の帰り道、真っ暗な焼け跡で強盗に襲われました。
幸い怪我はなかったのですが、財布は盗られてしまったそうです。どんなにか恐ろしかったことでしょう。


まだ街灯も復活していない頃ですから道は月や星の明かりだけ。
東京駅からの道がそんなだったこと、今の誰も想像がつかないでしょうね。
爆弾で吹き飛んだ東京駅の天井がむしろで覆われていたことも。

その日父がどこかで見つけたブドウ糖の塊りをお土産に持って帰って来てくれたことを鮮明に覚えています。


甘いものに飢えていた私には宝物のように思えたブドウ糖でした。何日もかけて大事に少しずつ食べました。


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