86歳が綴る戦中と戦後(5)捨てられた孤児たち

疎開して間もなく、旅館の下を流れる川の上流へ遠足に行き、そこでみんなで川に入って泳ぎました。その時に耳に水が入ったらしく私は中耳炎になってしまいました。

すぐに町の耳鼻科に連れて行ってもらったのですが、予後があまりよくありません。
耳の中が化膿して膿が流れ出てくるのです。
同じ部屋の子たちから臭いと言われ、自分ではどうすることも出来ず東京の両親に手紙を書きました。
母は東京の医者に診せたいから連れ帰りたいと校長に申し出たのですが、これは国の政策だから勝手は許されないと却下されてしまいました。それでも母は懲りずに何度もかけあったそうです。でも許可されません。

そこでほかにも病気になった子が何人かいたので、先生に付き添われて一緒に福島市内の大きな病院へ連れて行ってもらいました。しかし一向によくなりません。
それでようやく許可になり、母が迎えに来てくれることになったのです。
私は一人っ子だし、もし親が空襲で焼け死んでしまったら孤児になる。それならいっそ一緒に死んだ方がいい、と両親は考えたようです。

そしてそれは正解でした。
何十年も後に知ったことですが、まさにそのような形で孤児になった子どもたちが大勢いたのです。国の命令で強制的に子どもたちだけ学童疎開をさせられ、終戦になって東京へ戻って来たら家は空襲で焼け、両親も親戚もみな焼け死んで孤児になった子どもたちが大勢いたのです。

その日から寝る所も食べるものもなく浮浪児と呼ばれ、上野駅の地下道はそういう子どもたちであふれていました。国も誰も助けてくれず、お金もなく、盗みやかっぱらいをしなければ生きて行けなかった子どもたちが大勢いた事実を大人は忘れてはならないと思います。
餓死した子が何人もいました。

戦後すぐにGHQが出来てアメリカから総司令官のマッカーサー元帥が来日することになりました。すると政府から元帥の目に触れぬよう「汚らしい浮浪児たちを一掃せよ」とのおふれが出ました。

児童保護施設などほとんどなかった時代、多くの浮浪児たちはトラックの荷台に乗せられて、遠くの山に運ばれて置き去りにされたそうです。まるでゴミのように。
つまり国の勝手で親と引き離され、親が死んだり行方不明の子は、また国の勝手で捨てられたのです。その事実を知って私はますます日本と言う国が嫌いになりました。

一部の逞しい子はさ迷い歩き、親切な人に助けられて生き延びたようですが、そのまま餓死した子どもたちも大勢いたことでしょう。ひどい話です。

さて、遂に東京へ帰る日がやって来ました。
校長とケンカしてまでして連れ戻しに来てくれた母と最後に部屋を出る時、使っていたお椀と箸を下の川へポーンと投げ捨て、これでここともお別れだ、とすっきりしたのを覚えています。昭和19年夏から冬にかけての3か月余の疎開生活でした。

何十年も後、母とあの旅館をもう一度訪ねてみよう、と言いながら結局それは果たせずじまいになりました。

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