86歳が綴る戦中と戦後(9)新型爆弾

父の友人Sさんの家は高崎駅前の大通りに面していて、駅のアナウンスが聞こえるほどの近さにありました。
間口2間のガラス戸を開けると8畳くらいの広さのコンクリートの土間があり、その先が6畳の部屋、突き当りが台所とトイレ。(トイレなんて戦後の言葉。当時は便所といい、当然汲み取り式です。水洗式なんて当時どこにもありません。

6畳間から階段を上がると2階に和室が二つありました。
ほとんど着の身着のまま、焼け出されたままの姿でお金もなく、母はどうやって暮らしを立てていたのかわかりませんが、少しは貯金があったのでしょう。
食べるものもなく、いつも炒った大豆ばかり食べていた記憶があります。そしてそのせいでお腹をこわしてばかりいたのも。

母方の祖母の遠い親戚が高崎・八王子間を走っている八高線沿いの「松久」という駅からしばらく歩いた所にあったので、そこへ何度か行ったことを覚えています。
多分何か食べ物を分けてもらいに行っていたのでしょう。

八高線は単線で蒸気機関車に木製の客車。
トンネルに入ったらあわてて窓を閉めないともうもうと煙が入って来て大変なことになります。そうでなくても窓からすすが入って来て目に入り、一日中激痛で苦しんだことがありました。
今でこそSLはカッコいいとか絵になるとか言って夢中になっている人たちがいますが、皆さん平和な時代しか知らない人たちですね。私には良い思い出は一つもありません。

5年生で転校した学校は確か南国民学校という名前でした。
体操の時間は女子は薙刀(なぎなた)の練習です。今でもちゃんと動作を覚えています。
ここにもいじめっ子がいました。私の隣の席の女の子です。
成績が良いので級長か何かしていて子分が何人かいました。

ある時私の筆箱に見慣れぬ赤鉛筆が入っていました。当時はとても手に入らない、モンブランの万年筆にも匹敵するような貴重品です。
隣の子の名前が書いてあります。
とっさに私を泥棒にする気だな、とピンと来たので急いで彼女のカバンの中に入れました。
するとしばらくして子分を何人か従えてやって来たその子は、案の定筆箱を取り出して
「私の赤鉛筆がない、ない!」と大騒ぎ。
「あんたが盗ったんでしょう!」と私を指さします。「筆箱を見せなさいよ!」

蓋を開けましたが残念ながら私の筆箱には入っていません。
そこで言ってやりました。
「もっとよく探してみたら?」って。その後「よく探しもしないで人を泥棒扱いするのはやめなさいね!」と言ったかどうかまでは覚えていません(笑)。
彼女は子分の前で顔色なし。ザマァミロです。

8月の初め、広島にこれまでとは全く違う「新型爆弾」が落ちたと大人たちが騒いでいました。高崎にも空襲があるかも知れない、そうしたらきっと新型爆弾かも知れないから気をつけなきゃ、と。

近くにやはり東京の滝野川で焼け出された夫婦が5歳くらいの女の子と住んでいて、よくうちへ来てはおしゃべりをしていました。
その日も、今はもう食べられなくなってしまったたい焼きやお団子の話に花が咲き、いつになったら食べられるかねぇ、などと話していました。
それが8月14日のこと。

そしてその晩、本当に高崎にも空襲警報が鳴り響きました。

駅から南へ1キロほど行った所に烏川という大きな川があり、そこに高崎観音へ続く聖石橋(ひじりいしばし)というコンクリート製の大きな橋がかけられています。
空襲になったらその橋の下へ逃げれば焼夷弾の直撃を避けられるということで、その河原が避難場所になっていました。

そこへ逃げて遠く川下の方を見ると沢山の火の付いた焼夷弾がバラバラと落ちて行きます。まるで花火のようでした。その日は前橋も空襲になったと後になってから聞きました。

一晩過ぎて明け方、駅前は当然焼け野原だろうと帰って来ると、黒々とした家並みが見えて来ました。
焼けなかったのです。

家に戻り3人とも物も言わず倒れ込むようにして眠りました。

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