86歳が綴る戦中と戦後(11)手荷物預かり所

1945年8月15日。
ようやく戦争が終わりました。というより負けました。
「終戦記念日」なんてソフトな言い方をしてますが、「完敗記念日」です。
無条件降伏というのですから、相手からどうされても文句が言えない最悪な負け方です。

前途有望な大勢の若者たちを無駄死にさせ、何百万と言う国民の命を犠牲にする前に和平交渉に応じる方法もあったと思いますが、何せ国民を大事にしないのが今に続く日本と言う国の伝統です。
上に立つ人たちにとって大事なのは自分の命と立場だけ。国民などどうなってもいいのです。
今日に至るまでその性格は脈々と受け継がれています。

さて、群馬県の首都は前橋ですが、交通の要所としては高崎の方がずっと便利です。
現在も新幹線が3本も停まる駅ですから当時から賑わっていました。
戦争が終わって疎開から帰る人、軍隊が解体してそれぞれの故郷へ戻る人で終日多くの乗降客がありました。買い出しの人たちもいたことでしょう。
みんなリュックを背負ったり大きな風呂敷包みを抱えていました。

私たちが住んでいた家は前にも書いた通り駅のすぐ前で、道路に面して広い土間がありましたから「荷物を預かってください」という人が大勢いました。
母はいつも快く預かって上げていましたが、そのお礼にとたまに何かくれる人もいました。
今でも鮮明に覚えているのが、一人の水兵さんがくれたコンデンスミルク(練乳)の缶です。私が幼い頃父がどこからかおみやげに持って帰って来たことがあり、私の大好物でした。缶に2か所穴をあけて、大事に大事に少しずつ舐めました。

そんなある日、見知らぬおじいさんがやって来て母に「荷物を預かるのは有料にしなさい」と、どこからか持って来た木切れで下足札のようなものを何組も作ってくれたのです。


そして、一つを荷物につけてもう一つは預けた人に渡せば間違えずに済むと言ってどこかへ行ってしまいました。

一回いくらで預かったのか知りませんが、それで我が家の経済が助かったことは事実です。母は二度と現れないそのおじいさんを「観音様の化身だ」と言っていました。
兵隊の給料は本人には払われますが、銃後の家族には一銭の収入もないのです。
その頃うちにはほとんどお金がなかったのではないかと思います。

それは東京へ戻るまでのほんの2,3か月の間だけのことでしたが、その後巷では「手荷物一時預り所」という看板があちこちに立つようになり、かなり長い間商売として成り立っていたようです。

その頃学校ではシラミが大流行でした。お風呂に入れないのですから当然です。

毛髪の1本1本に黒い卵がびっしりとついています。

黄楊の梳き櫛にすき毛をはさんで母から髪を梳いてもらうと卵がパラパラと紙の上に落ちて来ます。


服についたのは一つ一つ両手の爪でつぶします。悲しい日課でしたね。

(後に英語塾をした時riceとliceの発音を間違えるととんでもないことになるよ、とよく言ったものでした)

目的は忘れましたが東京へ戻る準備のためか何かで何度か電車で母と往復しました。
乗る人は多く、列車の本数は少ないのでいつも乗車率は200%くらいです。
当時3等車は固い木の椅子で背もたれも垂直な木製、ひじ掛けも幅の狭い木製です。
2人用の席に3人は普通で、ひじ掛けにも、時には網棚にまで人が座り、通路は腰を下ろした人でぎっしり。
乗り降りは窓からなので手足にあざが絶えません。
トイレにも行けませんから駅に停まると窓から降りてホームで立ち〇ョンなんて男の子もいました。

そんな時新潟方面から乗って来た人が白いご飯のおにぎりなど出そうものなら周囲の目がいっせいに向けられます。恥ずかしながら私もよだれを垂らしそうになったことがあります。

高崎の少し先に「磯部」という駅があり、そこの磯部温泉は炭酸水なので、それでうどん粉(当時はまだ小麦粉なんて言い方はありませんでした)を練って焼くとふくらむというので一升瓶を持って母と買いに行ったことがあります。
その時も窓からの乗り降りでした。



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