86歳が綴る戦中と戦後(13)東京へ戻る

東京へ戻ることにはなりましたが家は焼けてしまってありません。
借家で土地も借地でしたから元の所へ戻ることは出来ません。

当時はよほどのお金持ちでなければ自分の土地に自分の家を持っている人はいなくて、借家が普通でした。
でもその焼けた借地にいち早く焼けトタンや古材でバラックを建てて住んだ人はそのままそこに居座ってしまい、結局持ち主が消息不明だったり戦後の混乱の中で境界線や所有権などもうやむやになって、いつの間にか他人の土地を自分のものにしてしまった例も多くあったようです。

女所帯の我が家にはそんな才覚も体力もなかったので母は父が事務所にしていた家に連絡を取ったようでした。
父は若い頃は水産関係の新聞社の記者をしていたそうで、全国の漁村を回って調査などしていたようです。それについて行くのが楽しかったと母から聞いたことがあります。

そのうち同じような仲間と独立して「水産経済研究所」という会社を興し、男性ばかり7,8人で働いていました。おそらく今で言うところのアウトソーシングを担っていたのだと思います。
その事務所も全員が召集されて空っぽになり、2階の部屋に留守番の人が一人で住んでいるだけ。そしてその人も戦争が終わったので故郷へ帰るとのことなので、そこへ住むことになりました。
そこならばもし父が復員して来た時、我が家がなくなっていてもきっとわかるだろうと思ったのです。

銀座1丁目の交差点から東へ真っ直ぐ1本道を1キロほど行った隅田川の河口のそばで、鉄砲洲と呼ばれている場所です。すぐ横に鉄砲洲稲荷神社という小さいけれど江戸時代からあるお社があり、そこのお祭りは有名で南は木挽町(今は東銀座)の歌舞伎座までが氏子でした。

山の手から初めての下町暮らし。
研究所は元は喫茶店の建物だったらしく、入り口はガラスの両開きのドア、外に向かって開く横長のガラス窓が2段ずつ付いているモダンな造りでした。
縦長の家で事務所の奥には3畳間が一つ。そのまた奥は土間で台所とトイレです。
2階は4畳半と6畳、それに2畳くらいの物干し台。

右隣りは四つ角の一角なのでその角の部分が平らな出入り口になっている区役所の出張所。前に赤いポストが立っていました。
通りを隔てた角は交番、その隣り2軒先が鉄砲洲稲荷です。

私が5年生で転校した鉄砲洲国民学校はその斜め後ろの位置にあり、うちからは5分もかかりませんでした。
その学校を含めて中央区の学校が全部鉄筋コンクリート製だったのは関東大震災の直後に建てられたからです。
しかし今、そのほとんどが廃校になっているのではないでしょうか?
銀座の泰明小学校だけは残っているようですが。

私にとっては5回目の転校でした。
同じように笹塚で焼け出された一家が交番の隣りに引っ越して来て、そこのM子ちゃんとは同い年、状況も同じということですぐ仲良くなり、それ以来何十年にもわたる交流が続きました。
私の唯一人の幼馴染です。

それまでの友達とは離ればなれ、生死のほどもわかりません。
でもそのMちゃんも何年か前に認知症になり今は施設暮らし。
2度ほど会いに行きましたが今はどうしているでしょうか。
遠く離れてしまったこともありますが、もし覚えていてくれなかったらと怖くて会いに行っていません。

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