86歳が綴る戦中と戦後(16)中学生になる

何とか肺炎から回復した私は6年生の2学期からまた学校へ通いだしました。
そろそろ進学のことを考える時期になり、その頃普通に女の子が行く女学校を2,3思い浮かべて受験するつもりでいました。
当時は女子は女学校、男子は中学校と決まっていて共に5年制でした。

すると多分年末頃だったと思いますが、急に制度が6・3・3制になり、翌年の4月からは小学校6年、男女共学の中学校が3年、高等学校が3年と変わることになりました。
中学までが義務教育となって授業料は無料、入学試験なしで行かれることになったのです。

試験がないというのは嬉しいし、親にとっても無料はありがたく、しかも徒歩通学が出来るとあればそちらの方が良いということになり、私は1947年4月から発足した新制度の第一期生として近くの新制中学へ入学しました。

それは家から歩いて15分ほどの所にある、それまでは男子の商業学校だった学校です。
不良学校との噂もあった学校で女の子は私たちの学年だけ。
休み時間にその頃流行っていたゴム段(二人の子が端を持ったゴム紐を走って行って跳び越える遊び。跳び方にいろいろな名前があり、少しずつゴム紐を上げて行って難度を競う)をスカートを翻して跳ぶと、窓に鈴なりになった上級生たちがピーピー指笛を鳴らしたりします。
トイレの落書きなどもひどいものでした。

ローマ字から英語に興味を持った私は英語の授業がいちばんの楽しみでしたが英語専門の先生がいません。戦時中は敵性語ということでいっさいの英語はご法度だったのですから先生が少なくて当然です。

ですから最初の一学期は国語専門の教頭先生が英語の授業をしていました。
真っ先に買わされたのが三省堂の英和辞書。
裏の字が透けて見えるような粗悪な紙でしたが、辞書を引くのが面白くて一緒に進学した同じ焼け出され組のMちゃんと夏休みに神田へ英語の本を買いに行き、無謀にも二人で辞書と首っ引きで日本語に訳し始めました。

選りによって内容が、殺されそうになった赤ん坊のモーセを両親が葦の籠に入れて川に流すとエジプトの王女がそれを見つけて助けるという話で、今思えば過去完了などが出てくる文章ですからその難しいこと。
Mちゃんのお父さんが成城学園の英語教師だったので教えてもらいながら何とか1ページくらいは訳すことが出来ました。

でもこの時の辞書を引く習慣がその後どれだけ役に立ったかわかりません。
今の中学生はどうなんでしょう。スマホやタブレットですぐに調べられてラクでしょうね。

2学期になってようやく早稲田大学の学生さんが英語教師として赴任して来ました。
大学生でも教授の推薦があれば英語の教師になれた時代でした。
後で当時21歳だったと聞いてびっくりしたのですが、13歳の私たちにとっては十分な大人の先生。声が良く響くので発音が抜群にいい先生でした。

この若い先生のお陰で私は英語が大好きになり、後に英語で食べて行く時代もありました。先生とはその後も先生が高齢で亡くなるまで他の同級生と共に交流を続けました。

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