86歳が綴る戦中と戦後(14)父の復員

1年生で入学した時から戦争で転校続き、空襲で落ち着かなかった学校生活がようやく平常に戻り、私は6年生になりました。

その頃の毎日の暮らしの中での一番の関心事は父の消息です。
どこにいるのか、生きているのか戦死したのか全くわかりません。
何もするにもそのことが頭から離れないので、例えば道路を横断するときなども「何歩で向こうへ渡れたらお父さんは帰って来る」「次の角を曲がって最初に会うのが男の人だったらお父さんは帰って来る」などと勝手なジンクスを作ったりしていました。
それが当たれば安心し、外れた時は自分流のおまじないで打ち消したりしていたものです。

そんなある夜のこと。2階にいると外でドスンドスンと鈍い音が聞こえました。
何だろうと窓を少し開けて外を見るとうちの隣りの赤いポストに着物の前をはだけた男の人を押し付けてGIが殴っているのです。
人を殴る音を初めて聞いた私は怖くて怖くて震えが止まりませんでした。

するとそこへ1台のジープが猛スピードでやって来てそのGIを乗せ、また猛スピードでその辺をビュンビュン走り回っています。目の前が交番なのに誰も出て来ません。
後で知りましたが、その夜はあちこちでGIの暴力事件が起きたようで、お巡りさんたちはみな出払っていたそうです。

我が家には収入がないので母は誰かの紹介で有楽町の読売新聞社へ出かけ、新聞を売る仕事を見つけて来ました。
次の日から日比谷の交差点の日比谷公園の入り口の角に台を置いて夕刊を売る仕事が始まりました。私も学校から帰ると母と一緒に新聞社へ行き、夕刊の束を受け取って一緒に売りました。
母は「もしお父さんの知り合いに会ったら恥ずかしい」と下ばかり向いていましたが、私はお店屋さんごっこのようで楽しくて面白かったです。
「半分私が売って来る」と少し先の帝国ホテルの筋向いにあるも一つの入り口の所へ行って地べたに座り込んで夕刊を売りました。
通りがかりのアメリカ兵が可哀そうと思ったのかリンゴを1個くれたことがありました。

アルミの1円玉を扱うので真っ黒になった手のまま売り上げを新聞社に届け、その中のいくらかをもらって家まで歩いて帰りました。

そのうち売り場が変わって勝どき橋を渡った所になり、そこには私はあまり手伝いに行っていないのは学校の帰り時間が遅くなったからかもしれません。

そんなある日のこと、学校から帰って2階へ上がって行くと坊主頭のやせた男の人が向こう向きに座っています。そばにはよれよれの大きなリュックがありました。

「誰?」と思った途端振り向いた顔はまぎれもなく父でした!
父が生きて帰って来たのです!
うれしくて、うれしくて、飛びついたかどうかは覚えていません。
とにかく母に知らせなければ、と家を飛び出して勝どき橋の向こうまで走り続けました。

もちろん母も大喜びでしたが、まだ新聞が残っているのですぐ帰ることが出来ません。
売り終わっても新聞社に売り上げを届けなければならないので私は先に帰りましたが、母が戻って来たのはだいぶ経ってからでした。

その夜布団に入った私の枕元で父と母は明け方近くまで話をしていました。
その話声を聞きながら、私は自分は世界一幸せな子どもだと思いつつ平和な眠りに溶け込んで行きました。

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