86歳が綴る戦中と戦後(8)焼け跡

後になって知ったのですが、この5月24日深夜からの空襲で中央線の沿線で言えば四ツ谷から信濃町、新宿、東中野、中野、高円寺までが全部焼け野原になったそうです。

翌日の25日にも空襲があり、その時は東京駅と日本橋、神田が全部焼けました。
有楽町、銀座が焼けたのも同じ日だったのではないでしょうか。それとも別の日だったか定かではありません。
テキは全てを知っていて、戦後GHQ(General Headquaters・連合国最高司令官総司令部)の入るビルにしようと皇居のお堀に面した第一生命ビルはちゃんと残して、有楽町駅のガードから日比谷寄りの地域は焼かなかったのです。

さて、中野に戻ります。
夜が明けて我が家のあった方面を見ると、当然ながらずっとずっと向こうの方まで見通せるくらい何の建物も残っていません。銭湯のコンクリートの煙突だけがぽつんと立っていました。
みな一言も口を利かず、まだ熱い地面の上を歩いて自分の家のあった所へ戻って行きました。

うちの焼け跡には一か所白い灰がうず高く積もっている場所がありました。
父が私が大きくなった時のためにと沢山の本を買い集めてくれていた本棚のあった所です。
母はそこにしゃがむとその灰を手ですくってはこぼし、すくってはこぼして長いこと無言のまま同じ動作を続けていました。
(その時母は32歳。奇しくもその丁度50年後の同じ日、5月25日に心臓病で亡くなりました)

誰かが知らせに来て私の友達の一家6人が防空壕で死んでいると言うのです。
すぐに母と駆けつけました。
父親は出征していて、母親と5人の子どもたちが縁の下の防空壕の中で蒸し焼きになっていました。
赤ちゃんを胸に抱いて座ったままの姿勢で黒焦げになっていた母親の首の骨がやけに真っ白だったのを覚えています。
どうやら死亡者はその一家だけだったようで、母はその後遺体の掘り出しや、焼け残った木々を集めて一家を火葬にする手伝いに駆り出されたそうです。

それから2,3日はどこに泊めてもらったのか覚えていないのですが、どこか焼け残ったお家に居候をしたのだと思います。
母は一人っ子で親戚はなく、父方も焼け出された叔父夫婦くらいしか親戚はないのでどう連絡を取ったのか知りませんが、父の大学時代の親友の家が高崎にあり、そこも主は出征していて母娘2人きり。高崎も危ないので故郷の新潟へ疎開するから留守番代わりに来てはどうかと言われたのでしょう。

離れて住んでいた母方の祖母も一緒に3人で高崎へ向かいました。


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