先生が泣いて、授業に空白ができた日。
困らせようとしたわけじゃない。
ふてくされていたわけじゃないし。
深い意味はなかったのに。
わたしの態度が原因で高校3年の頃、
音楽の授業に何分か空白ができたことが
あった。
音楽のМ子先生が急に泣き出したせいだ。
確かにわたしはふまじめだったとは思う。
少なくとも音楽の授業には参加して
いたつもりだったけど。
歌唱のテストの時、わたしは課題曲を
間違えた。
「サンタルチア」か「夏の思い出」の
2曲から自由選択で歌いたい歌を選ぶ
というものだった。
課題曲は先生がピアノの演奏をして
くれる方式だった。
イントロが流れた時、あ、まちがったと
思ったけど、こっちの歌でも歌えるかも
しれないと高をくくって歌い始めた。
案の定歌えなくて、間違いましたって
訂正した。
正しい課題曲を弾いてくれた時
ピアノの音がふいに途切れた。
ピアノの伴走なしにわたしの下手な
歌声だけが教室で浮いていた。
М子先生が唇わなわなさせながら
泣いていた。
わたしをバカにしているのねって
声が聞こえた。
寝耳に水だったけど。
わたしはリアクションが遅いという
クセもあってわたしの返事を待たない
うちに先生はとなりの準備室にしばし
こもって授業がストになってしまった。
今となっては苦い思い出だけど。
みんなは、ぼんちゃんが先生を泣かした
ってはやしたてていた。
今日、母校のサイトを見る機会があって、
覗いていた。
もうずいぶん昔通っていたお御堂や
シスターたちの顔ぶれは知らない人
ばかりだったけど。
卒業生の活躍のメニューをみていたら
М子先生がご活躍のようだった。
著名な指揮者の方のクリスマス
コンサートの企画やオペラコンサートに
出演されていることを知った。
ふいにそのご様子を見ていたら
М子先生が悔しそうに泣かれた表情を
思いだしてしまった。
先生にごめんなさいをしないままわたしは
卒業してしまった。
先生の思い出と言うともうお一方
いらっしゃる。
とあるスクランブル交差点の7分目
ぐらいを過ぎたところでいきなり
フルネームを呼ばれたことがあった。
そのけだるい声に聞き覚えがあった。
先生はトレパン姿じゃなかったけど、
体育担当の前田先生だってわかった。
前田先生はわたしの不安そうな目を
みて思いだしたって言った。
その頃もそういう目をして歩いていた
のかと恥ずかしかったけど。
交差点を過ぎて、アーケードの下
邪魔にならない場所で立ち話をした。
そんなの憶えてるんですか? って
言ったらだって新米教師だったから
なんでも、生徒のことは頭の中に叩き
込んでやろうって思ってたよって
答えてくれた。
その頃わたしは仕事のことで悩んでいたので
去り際に聞いた。
「教師っていう仕事していてよかったですか?」
前田先生は、躊躇なくうんって答えた。
「だって、子供が少しずつ成長したり努力したり
怠けたりずるしたり、嘘ついたりするのみてるの。
楽しかったよ。それぜんぶ含めて成長なんだ
なって気が付いたのはずっと後だったけど。
よかったと思ってるよ。どして?」
すごいラフに答えてくださった。
前田先生の屈託の無さと出身の福井の
イントネーションが耳に触れて、思いっきり
その頃の悩みを打ち明けそうになったけど、
わたしは思いとどまった
「仕事の先輩方に聞いてるんです。なにか参考に
なるかなって思って」
かつての前田先生の体育の授業といえば、
今まで飛べなかった跳び箱が飛べたり、
走り高跳がバーをゆらさずに超えたりした時、
先生はみんなに無言で親指をたててほめて
くれることがあった。
その頃のわたしは先生が親指をたてて
くれるようなことは、なにもないなって
思った。
そんなの卒業してまだ間もないんだし当たり
前なんだけど。
仕事が向いているかどうかばかりが気に
なっていた。
卒業した他のみんなはわたしよりイキイキ
暮しているような気もしていた。
誰か先生のことを思い出す時って、学校を
卒業してからのんほうが多いなって
思った。
たとえば言葉だったり行動だったり
さまざまなことが心のどこかに
しまわれているもので、ふいにその引き
出しを開けたくなる時が突然訪れるもの
なんだなって想っていた。
かつて教師で、今は農業とアーチストの
道を歩もうとしている彼女に話を聞く
機会があって、先生というワードが
今、身近に感じられたせいかもしれない。
森田先生、前田先生その節はお世話になり
ました。遅ればせですがありがとうござい
ました。
五線譜に こころの音符 ならべてみれば
きみが黙った 音の数だけ 不思議な調べ聞こえてる
いつも、笑える方向を目指しています! 面白いもの書いてゆきますね😊