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言葉を贈ってもらうという幸せ。

本のタイトルとかでも今さらだけど、

「伝える」っていうワードがあふれてる。

伝えるってなんだろうって思ってみる。

小さい頃もあまり喋らない子供だったので

何かを伝えたり訴えたりしてこなかった

気がする。

創作的なものを「書く」ことをしているときも

伝えたいと思って書いているのかって

聞かれたら、いっぱいいっぱいなので、

なにも考えていないというのが正直な

ところかもしれない。

これは、「仕事」の場合をのぞいてはという

ことになるけれど。

「仕事」の言葉は、誰かに贈る言葉なので

どうすればその人やモノや商品のよさが

「伝わるんだろう」って考える。

とある元コピーライターでベストセラーを

お持ちの方が、熱量のある想いを書くのが

ライターの仕事だと思っている人が

いるけれど、それは違うよって。

ちゃんと情報を正しく伝えられる人だけが

生き残れるんだって。

すごくうなづく。

わたしはそこら辺についてどう考えて

いたのかなって振り返る。

むかしコピーの学校で、情けを報せるから

情報だと思いますって、コピーの先生に

生意気な発言をしたことがあるけれど。

情けとは相手への心づかいや思いやりだと

すると。

それはあながち間違っては、いなかったの

かなって冗談みたいに思ってみる。

商品の情報を整理して伝えることが

コピーライターの仕事だとすると

商品のよさを伝える時に、そのなかに

幾ばくかの情が混じっていても

おかしくないのかもしれない。

通販の仕事をしていたときは、一瞬の

愛情をもってその商品のコピーを書いて

いたような気がする。

いいところをみるように。

マイナス面には触れないようにみたいな

ことをしていた、たぶん。

伝わる文章ってなんだろうって思った時、

伝えたかどうかよりも、最終的に

伝わったかだけなのだと思う。

こんなに商品のことを思っているとしても

消費者に伝わっていなかったら、つまり

売れなければそれは、届かなかった言葉

なのだと思う。

それってラブレターのようなものかな。

わたしはラブレターみたいなものを

書いたことはたぶんないけれど。

商品の広告に対してそのことをあてはめた

こともなかったけれど。

今なら、そういう一面もあるなって思う。

それは相手が対象だから。

一番最初にコピーを辞めた時、そういう

ことに気づいていたらまた違ったかも

しれないなって思う。

「わたし」で書く時の言葉は、時々逃げたい。

そんなに「わたし」を言い募ってなんに

なるんだろうって醒めているわたしもいる。

みんなたぶんそんな1種類の「わたし」じゃ

生きてゆけないだろうから。

でも、たとえばわたしがなにかをある人に

書いて、その言葉に返事を贈って頂いた

時には、あぁ届いてくれたんだな言葉って

思うことがある。

先日も、ずっと先を歩いている広告の世界で

30年以上生きていらっしゃるその方が

言葉にされていた「頑張る」に励まされた

ことがあった。

あらためて、リアルな声を聴いた気がした。

その時こんな、言葉を頂いた。

頑張る。疲れた。頑張る。疲れた。
この繰り返しで生きてきました。

ずっと一線を走って来た方のこの一言に

尽きるというような言葉だった。

こういう生の声を届けてくださったとき

少しでもわたしの拙い言葉が届いて

くれたんだなって、うれしくなる。

言葉ってこうやって、サイバー空間を

飛び交いながらも、生身のひとの心に

着地してゆく。

今、言葉の輪郭がすこしみつかった

気がする。

最近なぜかこんなことをつらつら

考えているこの頃です。


ことばのなかに わたしがいるって 思える詩
風さんのリリック 聴いた人が 届いたって感じる詩だなって 



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