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ひどい風に吹かれていたら、眼が覚めた気がした。

今、見ているのはじぶんの眼で。

動いているのは指だけど。

この眼と指だけが働いているってどうなのか。

ちょっと、どうなのかって今思ってる。

今年のあのステイホームのさなか。

それでも買い物には行かなければと、曇り空の下
近くの道を歩いていた。

頭の中はやはりあのニュースのことばかりで。

専門家でもないのに、いわゆるググった生活をしながら、

数字を見たりグラフをみたり。

時には、そんな理解する頭も持ち合わせていないのに、

著作などで信頼しているドクターの方のネット上の論文を

眺め見たりしていた。

そんな処理できていない情報が、消えないままで

わたしはぼんやりと歩いていた。

行きはなにもなかった。

帰りは、すこし指にくいこむエコバッグの袋をもちながら、

来た道を帰る。

信号をわたって、犬の散歩とすれ違いながら、渡り切って、

またすこし歩を進めていた時急に、突風が吹いた。

突風に出くわすのは初めてじゃないけれど。

でも、その突風はいわゆる最大瞬間風速なんたらメートルって

感じの風で。

何かにつかまっていないと、立っていられないような

そんな強力な風に見舞われていた。

今のじぶんの身体を保たせないとゆらっとして、

倒れてしまいそうで。

近くの焼肉屋さんの看板も、しなっているし。

ちょっとだけ、すごく恥ずかしいけれど、電柱に手をかけて

信号を待っているふりで、しのいだ。

そしてあの日のことを思い出しながら今、

詩のことばを見ている。

<大地は岩の間に 青い花を咲かせている ぼくの前にはいつも
ぼくのうしろ姿がある>  

という長沢哲夫さんの「足がある」という詩集だった。


もうひとつは、

山尾三省さんの「土」という詩。

<土は 静かである 土の静かさは深い 人間の どんな
沈黙よりも 土の沈黙は さらに深い
 鍬という 人間の
どんな道具をたよりに その沈黙を掘る>

あの日、ただ強風に吹かれただけだったのに。

あの風を体験して、ちゃんと身体のことを意識できた

気がする。

身体で危機を感じると、いったん仕切り直しのような、

潔い気持ちになったことを憶えている。

心も大事だったけど、直に体で感じることも大事だった

のではないか。

そんな想いに今駆られている。

ただ突風に吹かれただけだったのに。

眼が覚めたような気がした。

この間、風のことについて書いている人がいた。

風の存在意義について考えているんだと

教えてくれた。

風って世界をつなぐ役割をしているねって。

そしてじぶんも感じる風を、誰かも感じて

風がここにいることで、あらためて自分も

ここにいると感じるんだって。

ぼくが生きてるって感じるんだって。

そのことを聞いた時は、かつて経験したあの

突風のことを忘れていたけれど。

あの日、じぶんの身体がもっていかれそうなぐらいの

風を経験したとき。

わたしはいま頭で考えているんじゃなくて

身体ごと生きているなって実感した。

自然と対峙するっていうようなことでもない

だろうけど

ちょっと恥ずかしいぐらいのことだけれど。

かつて彼が言っていた言葉とおなじことを

身体で感じていたんだろう。

風って、風だけど、なんかすべてを潔くさらって

ゆくんだなって。

いまはそれがよろしいねって、そんなことを思ってる。

風にふかれて 足がゆらいで 地面を知った
詩の中の 自然や地球 皮膚に沁みる



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