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どこから来て、これから、どこへ行くんだろう。

砂浜を素足で歩いた時の感覚。

あれがいまちょっと懐かしい。

サンダルが砂に埋もれて、

もどかしそうだったので脱いで

そのまま裸足で歩いた時。

足裏にふれるあたたかい砂の感触が、

フェルトのルームシューズを素足で

履いた時みたいに、ここちよくて。

なにかにつつまれてる感じが、ちょっと

新鮮だった。

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春も秋も冬もそうかもしれないけれど、

とりわけ夏は風だったり太陽だったり

いろんな気配が、からだに直にうったえて

くる。

身体は生身だとより実感してしまう。

こどもだった時、海でさんざん陽焼けした。

宮崎とか鹿児島の海によく行っていた。

火照った灼けた肌がちくちくするパイル地の

Tシャツを弟とおそろいで着せられていた

夏。

家族で帰省した時、鹿児島の祖父に玄関の

ところでまちかまえていたように、

ぎゅっとハグされた時のいたいぐらいの

肌の感触を思い出したりした。

祖父に抱きしめられた時、さっきまで陽に

照らされていた背中や胸や腕が、こすれて

軽い悲鳴を弟とふたりであげたことは、

今でもだいすきな記憶のひとつに

なっている。

共に暮らしたことはないのに、誰のこと

よりもつよくつよく思い出してしまうのは

祖父のことだ。

記憶のりんかくがとてもあらわになる

夏のせいだろうか。

波の音と海の家から香ってくるお醤油の

焦げる匂いと、潮風のしめった風と。

知らない誰かの会話の合間にぽつぽつと

子供だった頃の夏休みがさしはさまれながら、

その時ひたすらに歩いた。

そんな散歩をしていると、ゴーギャンの言葉じゃ

ないけれど。

ほんとうにわたしたちはどこからきて

どこにむかって歩いているんだろう って

そんな気がしてくる。



でも、歩いていることじたいが楽しくて、

足をとめて方向転換することが

もどかしいぐらいの感じだった。

砂のあたたかさがずんずんとふくらはぎを

通って背中をかけのぼってゆくと、あの時の

祖父の体温がよみがえってくるようで、

安堵する。

とうの昔に祖父は死んでしまったのに。

わたしはいまだに祖父との記憶にずいぶん

助けられてるなって気がしてくる。

いないのにいるようで。

やっぱりいる。

なかなか手強いのだけれど。

その後、ひとなみにつらいことや

かなしいことをすこしだけ味わった時にも、

祖父のあのハグは、ふいにわたしの目の前に

処方箋のようにひらひらと舞い降りて来る。

おじいちゃんのハグ、一錠ください

みたいなそんな感じだ。

うまくいえないけれど、記憶にぎゅっとされて

いるような体感って。

どこかで身体が覚えているものなんだなって。

2021年に祖父がまだ鹿児島の地に生きていたら

この会えない切なさをどんなふうに

乗り越えたんだろう。

そして早く会える日を心待ちにして

いるんだろうなって。

新しいものが好きな人だったから

zoomとかで話をしていたかも

しれない。

そのじりじりした想いさえも

かけがえのないものなのかもしれないなって。

今の状況がほんとうにクリアになったら

あの遠い遠い夏休みの海をたずねてみたい。

今年の夏はことさらにそんなことを

思っていた。

どこからがって 問いかけないで 海すみれ色
ちぢんだり ふくらんでゆく ソラリスの海


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