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詩のようなものを書くことを、禁じられていた。

文章って、ある程度はじまりがあってちゃんと

最後になると終わってゆくもの。

起承転結。

そのことを知ったのは、いくつ頃だったか

忘れたけれど。

小さい頃は文章になっていない言葉の

つらなりのようなものが好きだった。

みられるのは嫌だったので、鍵付きの日記帳に

それを書いていた。

女の子がぼんやり森で佇んでいるような

あずき色がベースのそんなイラストの表紙。

学校から帰って、ランドセル全部持ちの

つまらんゲームにジャンケンで負けて、

そんなゲーム参加するってわたしは言って

ないよとそこらへんの道に次々に渡された

みんなのランドセルをほっぽって家に帰ってくる。

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宿題をするまえに、その日記帳を開く。

学校であったことや筆箱の中の鉛筆や

消しゴムの気持ちを言葉というか

詩のような形にして、なにかを書いていた。

はずいけど。

鉛筆は短くなって、じぶんをすり減らしても

それでも字のお友達ができてよかったね

みたいな。

アンパンマンかい! ってツッコみたくなる

ような。

ま、他愛もない、子供が書きがちなものばかりを

書き連ねていた。

それがある日、ページを開いたままにして、

おやつを食べていたら、父の帰りが思いがけず

早くて。

その机の上の詩を読んでしまったみたいで

ちょっと来なさいみたいに呼ばれた。

人の日記を勝手に読まんでよって思いながら、

ふてくされたように父のそばに行った。

あまり父親とは小さい頃からうまくいって

なかった。

お互い接し方がわからないというか、

ふたりとも不器用だったんだろう。

父は日記帳のページをめくりながら、

詩のようなものを書くのをやめなさい。

確かにそう言った。

そういわれて、ちょっとムカッとして

すぐに日記帳をばたんと閉じて、また

おやつに戻った。

小声で、はいぐらいは言ったかもしれない。

カステラかなんかを食べながら、すっごい

飲み込む時にもごもごしながらミルクを

飲んだような気がする。

詩のようなものを書くのをやめなさい、

だって。

のようなもの、

だって。

じぶんの中でなんども繰り返しながら

泣きはしないけれど、楽しみって突然

奪われるんだと知った。

嫌だとは言えないことはわかっていたので。

嫌々その受け入れを呑んだ。

それから年月が経ってずっと詩は封印していた。

書いちゃだめだという掟がじぶんの心にも

巣食っていた。

詩のようなものを書いてはいけない父の理由は、

文章には起承転結というものがあるのだから

好き勝手に、じぶんがわかることだけを

書いていてはいけないのだと、たしなめられた。

知らんがな。

って言えたらよかった。

今なら言えるのに。

ことの始まりがあって、その始まりに沿ってなにかが

起こり、何かが起こったよりももっと大きいなにかが

大きく転んでおしまいへと導かれる。

それを学ぶことが先だと父は言う。

そんなことを学ぶ前に詩のようなものを書いて

どうするんだと。

なにごとも基本を学んでからだって。

だから、知らんがなって

言いたかった。

言えたらよかった。

一日のうちを見ても父は、まるでひとりひとりが

起承転結に沿いながら日々を送っているかのように

言う。

わたしは、朝起きて学校に行ってなにかして

帰ってきてのところまでは起承転ぐらいに

あてはまっていたけれど。

いつもちゃんとおしまいの結につながるような

一日を終えたと思ったことはなくて。

ベッドの中でもやもやしながら弟に嘘話の

物語をつくっては聞かせて、彼が笑い疲れて

眠るまで起承転結のなりそこないのものを話し

続けていた。

だからそんなの嘘だって。

起承転結なんて嘘なんだって、それが嫌いに

なっていた。

だから作文もきらいだったし。

文章を読んだり書いたりも嫌いだった。

でも、

ことばの断片のようなものは好きだった。

気持ちをいつもどこかじぶんのみえるところで

ひとりだけで表現したいところがあったから。

詩のようなものでその代わりをしていたけれど。

それを禁じられては手も足もでなくて、

ただうすぼんやりとした子供になっていた。

そして、時間が経ってわたしも大人になって

父と母が別れてからクリスマスがくると

父が本を送ってくるようになった。

わたしが活字嫌いだと認識していた父は

まず絵本を送って来た。

ジャン・コクトーは詩人でもあるから。

父がそれを送って来た時、あんなに詩を禁じて

いたのに今、この期に及んで解禁かい!

って思った。

そして、毎年毎年つぎつぎと送られてくるものは

そこに詩が添えられているものばかりだった。

『クレーの線と色彩』

これもクレーの画集のようなもので

絵には谷川俊太郎さんの詩が寄り添っている。

そして、

ヘルマン・ヘッセの 『雲』

これも詩人であるヘッセの詩とエッセイ集だった。

あれだけ詩のようなものを書くなと言われて

封じてきたくせにって思いながらも

本に罪はないので夢中でページをめくっていた。

わたしは、時折エッセイのようなものを書いていると

詩のようだと言われることがある。

詩だけを単独で書くのはとてもこわい。

父に叱られたことを思い出すわけじゃなくて

なんだか潔くことばを並べられない。

あの日。

詩のようなものを中途半端に禁じられたので、

どこかで憧れがあるのかもしれない。

そんな憧れの欠片のようなものを

カステラの底のザラメからはみでてしまった

お砂糖の幾粒みたいに、文章の中に散りばめて

しまいたくなるときがあって。

そんな表現をしてしまうとき、詩のようなものを

書いてはいけないと禁じられた時のあの日記帳を

なぜだかふいに思い出してしまう。

ただいちど ふれていた指 まざまざと夢
耳元で 告げられた詩を 風にうばわれ









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