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東京、あなたを思いだす時だけ近くなる。

両国のホテルのすこし曇った窓から、

工事中のスカイタワーをみんなと見た

ことがあった。

その時の高さは、地上379メートル

だったらしく。

2階のフロアでみた時と25階から、ちがった

アングルで眺めた時とは、ちょっと

おもむきが違った。

その時なんとなく携帯で撮ってみた。

出来上がった姿よりも途中の姿ってのも、

なんとなく傷ついた塔の姿に見えて来て、

ふしぎだった。

いっしょにいたひとりの人が

なんだかへし折られたみたいでかわいそうだね

って。

子供みたいな感想を口にしたのを聞いて、

なにかその塔が擬人化されているみたいで

へ~って思った。

例えば建物でも出来上がるまでの途中は、

見ている人間に色々な想像をさせて

しまうものだなって思う。

こういうのを情緒っていうのかなって。

同時にわたしも同じことを思ってたから

こころのなかでおなじだよって頷いていた。

伝えてないけど、伝えられないことの方が

多いのかもしれないなって。

その時その人がだよね? みたいな顔を

したのでわたしは、はにかんだみたいに

笑った。

情緒が不安定だという自覚はあったけど

この時同じ情緒を味わっている気持ちが

してわるくない気分だった。

その時携帯で写真をチェックしながら、

画面の中におさまってるちっちゃな塔が、

その頃東京にあった建物の中でいちばん高い

ものになってゆこうとしていることがちょっと

認識しにくかったけど。

たとえば人を撮っても、画面の中の小ささに

しかみえないってことはなくって、等身大で

会っている人の大きさを頭の中で変換している

せいか、なっとくしやすいというのに。


<ポラは撮った瞬間、過去にみえるけれどデジタルはそうならない>。


そんな森山大道さんの言葉がふと頭の

どこかをよぎる。


久しぶりに東京スカイツリーの映像を

観ていた。

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デジタルは過去にならない。

そんな気持ちが追いかけて来る。

過去にならないものもあっていいなって

想いに駆られながら。

東京スカイツリーは出来上がってから

一度ぐらいしか見に行ったことが

ないけれど。

時折東京タワーが、昔のだれかみたいに

映っているのをみるたびにわたしは

大好きな江國香織さんの小説の冒頭を

想い出す。


世の中でいちばんかなしい景色は雨に濡れた東京タワーだ。

トランクスに、白いシャツを着た透がつぶやく。

どうしてだろう。東京タワーが濡れているのをみるのは
かなしい。胸をおさえつけられる気がする。子供の頃か
らずっとそうだ。

 関西に住んでいる時から東京タワーを

よく訪れていたのは好きな人が墨田区に

住んでいたからだ。

その人がこの世からすっと消えてしまっても

東京タワーはわたしの中で生き続けて

いて。

あの江國香織さんの小説のように東京タワーが

透や恋人の詩史やそこに住む人々を守って

いるという描写があるように。

彼もそんなふうに東京タワーに見守られて

小さい頃を過ごしていたんだなって思うと、

ちょっと胸がじんとする。

墨田区という街は数回ほどしか訪れた

ことはないけれど。

地元を愛する彼が地元にも愛されているのを

目の当たりにするたびにわたしはこの街が

好きになった。

東京タワーの大きさをリアルで把握は

できないけれど。

等身大の彼のことはリアルな大きさで

いまも覚えてることが今もわたしの

支えだったりする。

時と言う 名前の車 走り去っても
今思う その時だけが ひとつになって





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