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自意識と過剰のはざまに揺れていた時、母がかけてくれた言葉。

自意識と言うとその後ろに過剰という

言葉がくっついているのが

思春期の頃だけど。

これはSNSがライフラインのように

生活にはりついている今も

ずっと自意識の後ろには過剰が

つきまとう時代なのかもしれない。

ときどきそいういうものは振り払わないと

やってけない。

小学校の6年生の頃。

公立から、私学の学校に通うようになった。

住んでる場所は同じなので、むかしの

同級生と帰り道ばったり会ったりする。

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そういう時わたしはもちろん制服を

着ていて。

エンジのベレー帽に同じエンジの

ブレザーに中は千鳥格子のジャンスカ。

そして履きなれないコインローファーの

ような靴。

いちど、男の子にあいつじゃね?

みたいな感じで笑われたのだ。

いや、そんなに笑ってないかもしれない

けれど。

指さして笑われたぐらいの恥ずかしさが

あって。

制服を着て毎日学校に行くという生活に

馴染めなかった。

公立の学校の時は私服だったから。

わたしは小5ぐらいでいじめられつつ

あって。

母はそれを知らなかったけど、わたしの

中では、このままるどっぷりいじめ

られるっていう感覚だけがあった。

そして渡りに船で、なんとか試験を

パスして小6から新しい学校に通う

ようになったのだけれど。

その時母と買い物に行っていて、

制服を着たわたしは元の学校に

通っている誰かを見るや否や、

とにかく縮こまったらしい。

足元だけをじっと見つめて、彼らが

通り過ぎるのを待つしかなくて。

大体そういう時は人は、

堂々としていなさいとかそういう

ことを言うものだろうけど。

縮こまったものに堂々としなさい

っていうことはかなり拷問だ。

できないっちゅうのみたいになる

はずだ。

そんな時、母はひとこと。

誰もみてないよ、誰も〇〇子のこと

見てないから、大丈夫。

と言ってくれた。

みてないから大丈夫。

視線が刺さるように感じていたわたしは

その言葉にかなり救われていた。

誰も見てないから大丈夫  ってその後

わたしのお守りのような言葉に

なっていて。

ことあるごとにわたしの自意識の

バランスが狂う度に母はこの言葉を

わたしに投げかける。

自己顕示欲だとか自意識過剰だとか。

生きてるとつきまとわれる

厄介なものだけど。

そういうものを付き合っていかなければ

いけないのもあたりまえだけど

自分自身なのだ。

わたしが今年みた一番好きな

日本のドラマは『大豆田とわ子と3人の元夫』

だけど。

その中で最初の夫になる松田龍平演じる

田中八作が、3番目の夫シンシンに密かに

ドンピシャすぎるネーミングを

つけられていた。

つまり脚本家の坂元裕二さんが

あっぱれなんだけど。

それが

無意識過剰マン

と名付けられていた。

まさにキャラは、そのものだった。

過剰はよくないと言われそうだけど

生きてると過剰になることもあるよ。

プラスに過剰もあるし、マイナスに

過剰もあると思う。

自意識過剰から無意識過剰まで

ふり幅広くゆらめいて、

なんとなくニュートラルで落ち着く。

一生かけてこんなふうに生きて

いけたらいいと思う。

母の言葉って、そっけないのだけれど、

確かにね、自意識のすぎる子供にとって、

誰も見てない大丈夫よ!って

言ってもらえるってかなり心が楽に

なったことを思い出していた。

母になんでそういうこと言ったのって

聞いた時。

だっていつもママはそう思って育って

来たからね。

じぶんが見られてると思うほど
人はみてないもんよ。


だって、人のことより自分のことで

みんな忙しいんだから。

って。

そう、母を日々観察していると

年をとったからじゃなくて、ほとんど

ノーマークでなにも気にしない。

何か言われてもその人の意見でしょって。

そういう意味では昔っから彼女は

無意識過剰母さんのような気が

している。

まぁ真逆の子供が生まれてしまった

わけだけど。

無意識過剰な母によって、救われて

いたことってかなりあったのかも

しれないと思うこの頃だ。

みなさんもどうぞ心すこやかにお過ごし

くださいね。


ためらいも はじらいもなく 太陽は照る
みられたり みられなかったり かなり錯覚


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