夜のどこかで、なにかを創っているあなたを想う。
夜、眠れない時にぼんやりと考えているのは
この夜のどこかで、夜を徹してなにかを創り
続けている人がどこかにいるんだなってこと
だったりする。
子供の時もそうだった。
この夜空の遠くのどこかの町の下では、
勉強し続けているひとがいるんだろうって。
だから頑張るっていうベクトルはわたしは
持たなかったけれど。
20代はその想いばかりに駆られていた。
その名残があるのか今も時々思う。
そんな時に、どうしてもなぜか思い出して
しまうひとがいる。
版画家の南桂子さんだ。
作品集はもったいないぐらい好きなので
いつもいつもは開いてみない。
好きなものはずっと好きで居続けると
いつかなくなってしまうような
恐怖がある。
なにかがすり減ってしまいそうで。
夜をすり減らすようにしてきっと南さんは
銅版の下書きを描いていたり、その作業の
なにかをいるような気がしてしまう。
2004年に他界されているというのに。
版画家の南桂子さんの作品集「ボヌール」は
それでも折に触れて開きたくなる。
淡い色彩の中に、ぽつんとあらわれる朱色に似た
あかいいろ。
それはおんなのこのスカートのすその柄だったり、
月だったり鳩だったり。
おんなのこも、そばにたたずむ犬も、みんな
どこか所在なげなところが、すきだなって思う。
どのページをめくっていても、それは
いまではなくて。
かつての出来事のように見えてくる。
その一枚の中に存在している木も鳥も
傘の中の誰かも犬も、教会までもがみんな
いまはいなくなってしまったもののようで
せつなくなる。
でもページをめくったあとも瞼のなかの
どこかに残像のように、腰かけている。
南桂子さんがいつか綴った文章を巻末に
掲載されていた。
43歳から渡仏してその後28年間も
パリで過ごされていたことからも、
描かれるモチーフをみるにつけ、これは
きっとこどものころの記憶なのかなと
想像しながら見ていた。
異国という響きと、その作品が醸し出している
くるおしいほどのなつかしさがあいまって、
いろいろな感情がぐるぐると駆け巡ってゆく。
遠い場所から感じる日本を経験したのは
数少ない海外旅行でしかしたことは
ないけれど。
きもちのずっと奥で、あっちでくらしてみたい
願望はすてきれないことが、まだ残って
いることをうっすらと知る。
こんなに海を越えることが難しい今だから
もうあきらめているのかと自分で
思っていたけれど。
それはいつも南桂子さんの画集を開く度に、
感じてしまう。
そして、つぎの言葉を読んでぐっと
なにかをこらえたい気持ちになる。
物を創るということ、想像の発露とは
またべつのところでの苦悩もあったん
だろうなって。
立ち止まれば創る場所さえ失うかもしれない
であろう、創作するということの意味に
気づいて、しんとした気持ちになる。
描きたいことと求められていること。
じぶんの気持ちとは裏腹に〆切が
やってくるということ、などなど。
でもわたしはなにかを創るまえには
彼女のことを少し想いだす。
今もパリのどこかのアトリエで作業している
かのように思いだす。
このタイトルは彼女の持っていた18世紀の
指輪からきている。
ダイヤをくわえている金のライオン、
くるくるとはがすと内側に幸せという意味の
「ボヌール」という言葉が彫られていたそうだ。
そういうエピソードを読んでいるだけで、
土を穿つ双葉のような思いだけが、すくすくと
わたしの中で育ってゆく。
傘の中 お入りなさい ひとりふたりと雨の夜
誰かに 抱かれる犬が 顔を胸にうずめて
いつも、笑える方向を目指しています! 面白いもの書いてゆきますね😊