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心ってモノクロームのままで、いい時もある。

モノクロームのものに惹かれる。

ふだんはたぶんあらゆるものがどんなに彩色

されていても、モノクロームなんだろう

心情的にはって、思うことがある。

なにかを思いだす時に色はなかなか

でてこない。

形はすっと浮かんでくるのに、たぶん

色音痴なのかもしれない。

何色の靴を履いていて、何色のネクタイを

していて、何色のシャツを着ていたのか

ボディは何色のペンを持っていたのかとか。

それを知人に言ったら、

似合ってたからだよ、覚えられないのは。

たぶん、ネクタイも靴も違和感ないぐらい辺りの

風景に馴染んでいたからじゃない? って。

そういうことも一理あるかもって思った。

確かに似合っていたから色が思い出せないの

かもしれない。

写真家の森山大道さんの言葉が好きで書き留めた。

白黒というのは、前後の記憶が関わっている気がするし。
撮った今とつながる過去も、今の後に来る未来も両方の
時間が見える気がする

っておっしゃっていた。



一度記憶に留め置かれた色は、どんなカラフルな色も

いったんモノクロに戻ってなんかの拍子にその色が

戻ってくるのかもしれない。

昔見た母が好きだった映画のことを思いだしていた。

モノクロとセピアがまざった映画だった。

母が好きで観るのでお正月とかに必ずやっていたので、

彼女に付き合ううちに今まで一番見た映画の

トップワンになってしまった。


奥さんを亡くした男の人はレーサーで男の子が

ひとりいる。

スタントマンだった夫を事故で失った女の人は

映画のスタッフの仕事をしていて女の子が

ひとりいる。

それぞれの子供達はいつも寄宿舎に預けられ

週末の送り迎えの時にふたりは出会って過去を

抱えたままで恋に落ちる。

そんな話なのだけれど、そのストーリーでは

なくて。

映画の中の色彩のコントラストに惹かれた。

いつだったか、その映画の裏話を読んだことが

あった。

映画のシーンにセピアとモノクロが入り混じっている

のは、映画の仕掛けでもなくて。

予算が足りなくなっただけなんだってことを知った。

そんなリアルな内実だったけど。

そういえば、モノクロームの風景がずっと映ってて

モノクロームに視線を預けていると突然色のトーンが

セピアに変わる。

すべてがそうじゃないかもしれないけれど、

その映画をよくみていると、どこかのシーンで現在

描く時どこかモノクロで、過去を描く時にすこし色が

あしらわれていて。

その表現方法がなんだか気に入った。

現在という時は、こんなに目の中に色が飛び込んで

くるのに、どこかしらモノクロームめいていて、

過去はなぜか思い出している時に、目の前に色は

ないのに記憶の中では、どこかしらに色が乗って

いたりする経験はよくわたしもあったので、

この古い映画が好きになってしまった。

主人公のふたりのもどかしさ、切なさがボサノバの曲と

よく寄り添っていて。

思いはありすぎるのに、ふたりは遂げたいのに

遂げないとか。

ひとりとひとりであるとか。

過去が断ち切れないとか。

大人になってから経験する冒険と躊躇の葛藤が

伝わってくる。

そして今思い出しても好きだったシーンには記憶の中で

色がついている気がする。

これをみていて思ったけど、色が街にあふれていたり、

誰かが何かを楽しそうに奏でていて、暮らしが彩られて

いることに落ち込んでしまう時って誰でもある。

たとえばそういう時は、モノクロのままでいいんじゃ

ないかと思う。

無理に色をつけなくても。

例えば、心が動いた時に、あ! でもいいし、

っ! でもいいけれど。

すごい!ってじぶんの中の針が微妙に揺れる時が

やってきて、

やがて景色に色がにじんでゆく。

ぼんやりみていた形の側に、寄り添っている色が

次第に層を重ねながら眼に映る幸福の瞬間。

鮮やかに空の下で発色しているみどりやおれんじ

こげ茶色は、時が流れて置き去りにされた後

出会った瞬間に鮮やかな色として飛び込んでくる。

はじめからここにいましたと言わんばかりに。

だからいまはモノクロのままでいたいひとは

そのままで、色づくのを待てばいい。

そんなことを思ったりしている。

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#あたらしい自分へ

遠ざかる むかしむかしは 極彩色に
鳥が飛ぶ はぐれた一羽 空はセピアに

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