島崎とあ

母を在宅介護しながら、自分の毎日を出来るだけ大事にしたい60代です。 古い物事や昭和の…

島崎とあ

母を在宅介護しながら、自分の毎日を出来るだけ大事にしたい60代です。 古い物事や昭和の家族の想い出を大切にしながらも不要なものは手放し、新しい物事にも挑戦する日々をnoteしていきたいと思っています。時々90代の母の書きたい事も代理で書いてみる予定です。

最近の記事

【昭和的家族】横浜中華街

だいぶ前の事だ。埼玉にある実家から一番近いJRの駅に、湘南ラインという列車が通るようになった。知らずに駅で初めてその列車を見かけた私は、行先が熱海だ小田原だとなっていて、驚いた。どちらの駅も自分の中では東京駅から新幹線に乗って行く場所のイメージがあったからだ。”時間が掛かるとしても、直通で行けるなんて面白そう”と、その時私は思った。 その頃の私は東京でフルタイムで働いていて、年内に振り当てられる有休を計画的に使う為、月1度くらい平日休みを取得していた。そんな休みの日は、大抵

    • 【昭和的家族】高い所が苦手

      私も得意ではないのだが、私の父は私よりも更に高い所が苦手だった。以前私が東京で住んでいた部屋は8階にあり、東南側のカーテンを思いっきり開けると、窓の外には一切障害物となる建物が無く、見晴らしがとっても良かった。その上で私自身は、よほどの事が無いと自らカーテンを開けたり、ベランダに出る事はしなかった。洗濯物もベランダに干さなくても良いように乾燥機付きの洗濯機を購入して済ませた位だ。高い所が怖いからである。 その部屋に住み始めて少し経った頃、一度だけ母と父が遊びに来てくれた事が

      • 【昭和的家族】寒天とあんみつ

        一時期TVの健康番組で、何か特定の食材が身体に良いという特集を良くやっていた頃、私の父もそういった番組がとても好きで、翌日には放送されていたお勧め食材を、近所のスーパーマーケットに良く買いに行っていた。 当時、父と同じように影響を受ける人は多かったらしく、放送後の翌日以降に全国のスーパーマーケットで特定の商品が売り切れるという現象が頻繁にあったらしい。但しブームは本当に一時的なものだった事が多く、父自身の流行りもいつも短い期間で終わっていた。 いくつかの食材の中で、比較的

        • 【昭和的家族】母との旅行と父の留守番

          40代半頃、私は転職した先にも少し慣れ、数日程度の国内旅行であればそんなに悩まずにできるくらいの精神的・経済的余裕が出来ていた。丁度その時期、趣味でシルバーコーラスに通っていた母は、コーラス仲間の方々から頻繁に国内旅行のお土産をいただくので、自分もどこかに旅行に行ってお土産を渡したいと言い出す事が多かった。私は両親の年から考えると、少し遠くの国内旅行に一緒に行けるのも今位までかもと思い、始めは両親に一緒に旅に出ないかと誘ってみた。すると、父は 「お父さんはいいから、お母さんを

        【昭和的家族】横浜中華街

          【昭和的家族】TVを観る姿

          私は得意ではないけれど、絵を描くのは昔から好きだ。中学校の時は、今でも親友である幼馴染の友人が立ち上げ部長をしていた美術部に誘われ、副部長をした。しかしながら、この美術部は自分達で絵を描く時間よりも、土日にみんなで近所の美術館に絵を見に行ったり、放課後にお互いの悩み相談のおしゃべりをしたり、歌や踊りを練習したり(特に熱心に練習していたのはピンクレディーだった)、みんなで一斉に気合を入れたらもしかしたらインドのサイババのように一人位は椅子ごと持ち上げられるのではないかと練習して

          【昭和的家族】TVを観る姿

          【昭和的家族】どこにしまいやがった

          父は普段はとても母に優しい人だったと思う。母はどちらかと言うと、誰かに何かやってもらったり世話してもらう事が好きな人だ。一方で父はどちらかと言うと、人に世話をする事が好きな人だった。だからこそ父と母の夫婦としての組み合わせはとても良いのでは、と私は長い間両親を観察して思っていた。 しかしながらそんな父でも、私が母だったら絶対怒って喧嘩になるなという酷い態度を母に取る事が時々はあった。特に私だったら嫌だなと思っていたのは、父が家の中で何か探し物をする時だった。例えば、父が使っ

          【昭和的家族】どこにしまいやがった

          【昭和的家族】『のんのさん』

          私は30代の半ばで、社会人大学生になった。授業はほぼ夕方から夜だったので、今思えば頑張れば仕事を続けながら学生もできたと思うのだけど、その時は大学生活4年間を精一杯大学生として過ごしたいと考え、受験前に働いていた会社を辞めた。時は秋だった。仕事を辞めた頃、秋から冬に移る季節感も含め周りの景色がとても真新しく美しく思えた。多分それまでは仕事が忙しかったという以上に、周りを見渡せる気持ちの余裕がなかったのかと思う。私は新しく購入した持ち歩ける大きさの植物図鑑を片手に、試験勉強に疲

          【昭和的家族】『のんのさん』

          【昭和的家族】エビフライでジャンプ

          ある時期、私の母は以前より目が見えにくくなったと一人で近所の眼科に通っていた。母が80歳になる少し前の頃と思う。その近所の眼科は比較的規模が大きく、院内で白内障の手術も行っていた。数回通っていよいよ次回は精密検査の結果が出るというところで、母はもしも手術となったらどうしようと急に怖気づいてしまった様子だった。 「この前、先生から多分白内障だろうって言われているのよ。検査結果を見て今後の治療方針を決めましょうとの事だったわ。どうしよう」と母。 「どうしようって、目を治療したい

          【昭和的家族】エビフライでジャンプ

          【昭和的家族】頼み事のコツとクリスマスツリー

          あれはいつ頃の事だろう。父がまだ現役で一番忙しく働いていた頃かと思う。私は父に頼み事をするのにはコツがあると気が付いた。例えば、自転車のパンクを修理して欲しい時、もしも父にストレートに頼むと断られる。 「お父さん、自転車の空気が抜けやすくて、どうやらパンクしているみたいなんだけど、見てもらえますか?」と言うと、 「なんだよ。俺だって忙しいんだ。お母さんに頼んでくれよ」と言う感じ。 だけどもし直接父に話さず、父が近くにいる時に母や別の家族に悩みを相談すると父の行動は全く違う

          【昭和的家族】頼み事のコツとクリスマスツリー

          【昭和的家族】焼肉は豚肉

          食べ盛りの兄弟の中で育つとはどういう事なのか、私は思う存分経験してきた方と思う。私達兄弟が一番食べ盛りだった頃、我が家には従妹最大3人とも一緒にご飯を食べる時もあり、私達も必死だったけど、その頃料理を担当していた母も相当必死だったかと思う。 昔飲み会でネタとして盛り上がっていた誰かのお話で、”子供の頃に兄弟が多かったので今でも大皿で料理が運ばれて来ると、即座にその席に座る人数でその料理の一人当たりの割り当て量を計算してしまう”というのを聞いたけど、私も正にその症状が今でもあ

          【昭和的家族】焼肉は豚肉

          【昭和的家族】目のキラキラしたフクロウ

          私の父について、私は色々な方から「お父さん、器用だったよね」と言われる。父が色々な事を見様見真似で習得していたからかと思う。ある時何かに興味を持つと、父は自分で満足できる成果が出るまで自己鍛錬を重ね、激しく集中していく。しばしば食事の時間や寝る時間になっても作業を止めず、何度も何度も声を掛けに行く必要がある位だった。そんな父が何かを作った時、その作品は見栄えで言うと大抵はキレイだったり完璧でなかった事が多かったけれども、父の気合と集中力の高さからくる底知れぬ力強さが何らかの形

          【昭和的家族】目のキラキラしたフクロウ

          【昭和的家族】『馬鹿たれ!』と『遠いところを良く来てくれたな』

          私の父は、良くも悪くも短気で、俗に言うビビりやすいところのある性格だった。そんなだから本来は車の運転は苦手だったらしい。家族のために、度々車を買い替えて、頻繁に乗る時期もあったけれども、一度だけ小学生の子が乗っている自転車をかすめてしまいそうになって、それを機に運転を止め、車を暫く運転していない時期もあったと聞いている。 とは言え、80代になってもまだ自家用車を運転していた。最後に乗っていた車を販売した中古自動車販売業者の方に後々聞いたところ、父が車に乗る目的は3つ、近所の

          【昭和的家族】『馬鹿たれ!』と『遠いところを良く来てくれたな』

          【昭和的家族】母が専業主婦を選んだ理由

          私の母は、昭和7年生まれで、商業学校を出てから県庁で事務職として15年弱働いていた。当時、女性が長く仕事ができる職業としては公務員や学校教員は人気だったようだ。 そんな母と、2歳年上の父が出会ったのは職場だったそうだ。結婚に至る迄の細かい経緯は恥ずかしがって二人とも詳しくは教えてはくれなかったけれど、母によると、当初父は母の友達を気に入って、母はその友達を父に紹介したけれど振られてしまい、可哀そうと父を慰めているうちにいつの間にか付き合う事となったとのことだった。 母の母

          【昭和的家族】母が専業主婦を選んだ理由

          【昭和的家族】小さな花火

          あれはいつの頃だろう。多分私が小学生の高学年か中学生の頃だったと思う。その頃の父はとても夏祭り等で行われる花火が好きで、実際の花火大会にも時々連れて行ってくれた事があった。しかしそれより何より想い出すのは夏の夜、急に聞こえた外からの花火の音に誘われるように、夕食の食卓や夕食後の居間にいた父が急に姿を消していた事だ。 たいていの場合、父は自宅の2階のベランダで何処かに見えるはずの花火を探していた。その上で静かな住宅地にあった実家の周囲も年々家が建ち並び年々前は見えていた遠くの

          【昭和的家族】小さな花火

          【昭和的家族】『しゃぶ肉』と唐揚げ

          もう本当にだいぶ前の事、父が一番最後に実家で飼っていた犬と遠めの散歩に行く道途中に、個人で営業しているお肉屋さんがあった。初めて父が立ち寄って買ったしゃぶしゃぶ用の薄切り豚肉と、唐揚げがとっても美味しくて、家族みんなで大絶賛した。父はそれ以降、何かあるとそのお肉屋さんに行くようになり、しゃぶしゃぶ用の薄切り豚肉と唐揚げ以外にも、色々な種類のコロッケなども買いつつ、そのお店の店主であった父より少し年下のマスターと世間話をしながら仲良しになったようだ。 しゃぶしゃぶ肉は長いので

          【昭和的家族】『しゃぶ肉』と唐揚げ

          【昭和的家族】誕生日のご馳走

          私の父母は、元気なうちは私の誕生日を幾つになってもお祝いしてくれた。朧気な記憶であるが、小さい頃の誕生日は、それこそ食卓が食べきれないくらいのご馳走のお皿で一杯となるくらい大げさに祝ってくれた。誕生日のケーキも近所のお店で買える範囲ではあったけれども、今年はどこのだ来年はどこのが良いかとほぼ毎年用意してくれていた。 一度だけ、小学生の時、たまたま私の誕生日の夕食前に大きな雷が来て、皆が食卓に並ぶ直前に停電となり、かなり長い間家中の電気が点かなかった時があった。その日は母が近

          【昭和的家族】誕生日のご馳走