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【昭和的家族】『のんのさん』

私は30代の半ばで、社会人大学生になった。授業はほぼ夕方から夜だったので、今思えば頑張れば仕事を続けながら学生もできたと思うのだけど、その時は大学生活4年間を精一杯大学生として過ごしたいと考え、受験前に働いていた会社を辞めた。時は秋だった。仕事を辞めた頃、秋から冬に移る季節感も含め周りの景色がとても真新しく美しく思えた。多分それまでは仕事が忙しかったという以上に、周りを見渡せる気持ちの余裕がなかったのかと思う。私は新しく購入した持ち歩ける大きさの植物図鑑を片手に、試験勉強に疲れると、頻繁に近所の散歩を楽しんだりしていた。

その頃、たまたま私の父も長く務めた仕事を退職していて、比較的時間がある生活をしていた。別々にではあるけれども、父も良く近所を散歩していて、私達のどちらかが家から歩いて行ける距離に少し大き目の陶芸教室があると気が付いた。

多分私は父と一緒にその陶芸教室のお試しレッスンを受けたのだと思う。それまでにも私は何度かデパートの中のカルチャースクール等で陶芸のレッスンを受けた事があった。父は初めてだった。当日は手びねりという陶芸の基本的な手法で、私達は器を作り、レッスンの料金体制やレッスン時間(なんと、その陶芸教室は当時時間制限が無く、教室が空いている時間内であれば何度でも何時間でも通う事ができた)の説明を受けた。勿論、土自体や釉薬という陶芸作品を完成させるために表面に上掛けする薬は、使えば使う程お金は掛かる仕組みではあった。それでも私は丁度社会人大学の試験合格後の予定を考えると、4月の入学時まで贅沢な程の自由時間があった。”この何カ月の間に、今まで試した事のなかった電動ろくろを使った陶芸に挑戦してみたい!!”と私は強く思い、早速入会の申込をした。父も一緒に申し込んだ。

それは11月の初めだったと思う。父と私は約5カ月間、同じ陶芸教室に通った。とは言え、行く時間も違っていたし、作る作品も別々だった。私はひたすらろくろの機械の前に座り、何度も何度も同じような茶碗作りに挑戦していた。父は、電動ろくろは使わない作品を作った。始めは陶芸教室の先生に色々な手法での陶芸の作り方を習い、その後父は成型作業は家で行うようになり、出来た作品を乾燥させてから自転車に積んで陶芸教室に持って行き、釉薬を掛けて焼く過程から陶芸教室の先生に習うようになっていた。

そのうち、父の作品は段々と先生や陶芸教室の他の生徒さんから注目されるようになった。まだそんなに作るのに慣れていない頃から、父は抹茶茶碗を作り始め、全国の色々な地方の土や釉薬を組み合わせ、それなりに立派な茶碗を作り始めた(例えば萩焼等)。そして、一般的には空気が入って焼くときに割れやすいからと挑戦する人が少ないような立体的な飾り物にも直ぐに挑戦するようになった(例えば複雑な模様の入った香炉等)。挙句の果てに、父は弥勒菩薩像を陶芸用の土で作り、焼き上げた。

陶芸教室の先生は私に言った。
「こういうものは空気が入ったり、縮む尺度が部分毎にバラバラになったりして上手く焼けない事が多いのに、お父さんのは良く完成しましたね」
私は、父の度胸をすごいなと思いつつ、段々普通の茶碗を作る自分の作品が父の作品より大した事がないと、つい思うようになってしまった。

春になり、私は学校に通うのが忙しくなった事もあり、きっぱりとその陶芸教室に通うのを止めた。父は、私が行くのを止めてからも1,2年はその陶芸教室に通い続け、大きな花瓶等の大作を散々残してから止めた。

そんな父が最後まで実家の居間に自分の陶芸作品の代表作として大切に飾っていたのが、母が『のんのさん(母が小さい頃使っていた里の言葉で観音様のことらしい)』と呼ぶ観音菩薩像だ。母と私は今でも、この『のんのさん』に日々の色々な悩み事や祈り事を話しかけている。

ちなみに、同じ時期に私が作っていた形のいびつな小さめの茶碗達は、意外と使いやすくて『のんのさん』やご先祖様たちに何かをお供えする時等に、結構活躍している。だからだけではないけれど私は、あの秋と冬の間に父と同じ陶芸教室に通えたのは良かったな、と思っている。



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