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【昭和的家族】高い所が苦手

私も得意ではないのだが、私の父は私よりも更に高い所が苦手だった。以前私が東京で住んでいた部屋は8階にあり、東南側のカーテンを思いっきり開けると、窓の外には一切障害物となる建物が無く、見晴らしがとっても良かった。その上で私自身は、よほどの事が無いと自らカーテンを開けたり、ベランダに出る事はしなかった。洗濯物もベランダに干さなくても良いように乾燥機付きの洗濯機を購入して済ませた位だ。高い所が怖いからである。

その部屋に住み始めて少し経った頃、一度だけ母と父が遊びに来てくれた事があった。その時もいつもながら、母が発起人となり父はつられて着いて来たように思う。私はお昼前に二人を経路途中の乗り換え駅に迎えに行き、一緒に部屋まで来てもらい、部屋の中を案内した。その時撮った写真が数枚残っているのだけれど、その中の一枚に窓の外を眺める父の姿がある。写真の中の父は、外を眺めている割には窓からはだいぶ離れて立っていて、窓に近づくのを少し怖がっているようにも見える。実際、お昼を部屋で一緒に食べてから二人がそそくさと直ぐに帰ってしまったのは、何よりも父にとって部屋が8階にあるので落ち着かなかったからではと思う。

その少し後の頃と思うのだが、親戚の一人が横浜で結婚式を挙げることとなり、父が招待を受けた。私は居間で父が、その結婚式の案内状を広げて、色々と悩ましそうな顔で眺めているのに通りかかった。
「お父さん、どうしたの?もしかして結婚式の場所が分からない?」と
私は聞いた。すると父は既にインターネットで検索をしたらしく、会場となるホテルの場所と景観の写真が載ったカラー印刷を見せてくれた。
「場所は分かるんだよ。ただな、どうやら横浜のこのビルのとっても高い階らしいんだ」
私が父が差し出した紙を見ると、確かにこれは相当高い階にある結婚式場らしい。景色は素晴らしい。70階と書いてある。”うわっ、これは私が60階という高さで苦手な池袋サンシャインシティより10階も高い”と私は思った。
「そっかお父さん、高い所だから怖いんでしょう。これってお父さん一人で行く予定?」
「そうさな。今回は俺だけだな」
とても素敵な結婚式場のようだけど、父にはその70階という高さが何よりも一番気になっているようだった。

それから父は自分で、高い所にある結婚式場にどうしたら自分の気分を盛り上げて行けるかを検討していた様子であった。
まず、自由席ではあるけれど、休日なら時間帯によりほぼ座れる列車のグリーン車を行きも帰りも使い、その道中で自分にご褒美としてコーヒーとお菓子を振る舞う事にしたらしい。その他色々と事前に段取りを考え、準備をした上で、当日父はかなり緊張した面持ちで70階の結婚式場に果敢にも向かって行った。

父がその日戻って来た時も私はたまたま実家にいて、玄関で帰って来た父を出迎えた。
「お父さん、お帰りなさい!どうだった」
「いやー、緊張したけど、なんとか無事に済ませられたよ」と
父は玄関から居間に入り、早々に母が父用の湯飲み茶わん一杯に入れた日本茶を両手で抱えて飲みながら、心から寛いだ笑顔で言った。そして、
「そうだそうだ、これを食べないと!」と、結婚式の引き出物が入った紙袋の一番上にあった小さな小箱を開け、さっきまでいた高層ビル(70階に結婚式場がある)の形になっているチョコレートを取り出した。
「無事に行った記念に、こいつを食べてやるー」と父は冗談ぽく言って、私達家族の誰にも全くひとかけらもくれず、一人でその記念のチョコレートをもくもくと一気に食べ終え、笑った。


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